「言葉で伝える力」について 監督 齊藤 秀樹
自分に自信がなく、間違えて恥をかきたくないから授業中手を挙げない、という子がいます。しかし学校という所は、わからないことをわかるようにするところです。朝、校門をくぐるときには知らなかったりわからなかったことも、下校するときにはわかっている。このように子どもたちは日々の学校生活の中で1つ1つのことを学び、理解していくことで成長し、これが学校に来る意義であり価値でもあります。そう考えれば、新しいことを理解するために、間違えるのは当たり前のことです。みんながわかっていることなら授業なんか必要ありません。そう“学校は間違えて良いところ”なのです。同じ1時間の授業をしていても、いつも受け身で覚えたり理解するだけの子と、理解したことを頭の中で整理し、それを相手にわかりやすく伝わるよう挙手をして発表する子とでは、その学力に大きな差ができてしまいます。
ある会社で人事、採用を担当している私の友人曰く、会社としてほしい人材は、「知識・理解」に優れた人ではなく、人前で自分の考えを分かりやすく堂々と発言できる「表現力・プレゼン力」に優れた人材だそうです。
さて話は変わりますが、私が現職の頃、小学生の国語の授業で「言葉と事実」という説明文の学習がありました。この中に「イソップ童話のうそつき少年」という話が出てきます。有名な話なので皆さんもご存じだと思いますが、羊の番をしている少年が、オオカミが来てもいないのに「大変だ。オオカミが来た。」と言って、度々村人を驚かしだましていました。そのため本当にオオカミが来たときに「大変だ。オオカミが来た。」と言って必死に助けを求めても、村人はまた嘘だと思って、誰も助けに行かなかったという話です。
この話は、「言葉は事実と結びつけて使わないと、言葉としての役を果たさなくなってしまう」という教えです。
私は常々言葉というのは、それを発する人の「人格」や「人間性」が表れてしまうものだと思っています。例えば「今日の富士山は本当に美しい」という言葉でも、有名な写真家が言う言葉と、たまたま訪れた一般の観光客が言った言葉では、それを聞いた人の印象は大きく違ってくると思います。
よくクラスの帰りの会の中で「掃除中に○○君がふざけていました。」とか「最近、忘れ物が多いので気をつけてください。」等と、友人たちをよく注意する子がいますが、その注意がどんなに正しくても、注意した子自身がそれを守れていないと、かえって反感をかうだけで誰からも聞いてはもらえません。他人に注意できる人は、まずは自分が注意できるだけのしっかりした人間であることが基本になります。
「子育て」は「己育て」、「育児」は「育自」、「教育」は「共育」という言葉がありますが、これは子どもを育てるとか教えるというのは、相手である子どもが成長するのはもちろんですが、それよりもむしろ育て教えている大人自身が、人間的に幅広く豊かに成長していくことだということです。子どもが親や先生の言うことを素直に聞くようにするためには、まず親や先生が子どもから信頼される存在であることが必要だと思います。
人に対して、説得力のある言葉というのは、実は「何を言うか」ではなく「誰が言うか」で決まることが多いものです。したがって、私たちは「誰が言うか」の「誰」になれるよう日々努力していくことが大切ではないでしょうか。