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子育て講座①「児童虐待」(監督から)日誌02/07 13:30

          齊藤 秀樹  監督

 
 

監督から

日誌
12345
2025/02/07new

子育て講座①「児童虐待」(監督から)

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 子育て講座①「児童虐待」 監督 齊藤 秀樹
 まず「子育て講座」等というタイトルをつけると、「子どもを教育するのはわかるが、親も教育が必要なの?」という人がいます。しかし「子育て」は「己育て」(自己)、「教育」は「共育」、「育児」は「育自」(自分)という言葉があるとおり、子どもを育てるとか教えるというのは、子どもの成長はもちろんですが、むしろ教えている大人自身が学び成長することが大切だと思っています。例えば、子どもが親を信頼するには、親が子どもから信頼される力をつけることだと思うからです。

 さて皆さんは「児童養護施設」という所が全国各地にあることを知っていますか。児童養護施設というのはそもそもは「孤児院」という呼称でした。つまり孤児(親が一人もいない子)が生活する施設でした。しかし現在、児童養護施設で暮らす子どものうち孤児は全体の1割弱しかいません。つまり9割以上の子には親がいます。なのになぜ子どもは親と一緒に生活することができないのでしょうか。子どもたちの入所理由で最も多いのが「児童虐待」です。親がいるのにその子の生命や安全が保証できない。だから親と離れて暮らすことを余儀なくされているのです。

 「親は子どもを守り保護する存在である」とは、ごく普通の当たり前の言葉ですが、これがどの親にも当てはまるとは限りません。なかには子どもの身の安全を脅かし危害を加える親たちがいます。これを「児童虐待」と言います。2024年末に児童相談所に届けられた全国の虐待件数は実に21万9千件に上り、毎年増加しています。

 児童虐待をいくつかの類型に分けてみると次の通りです。
①「身体的虐待」…子どもを殴ったり、蹴ったりする暴力行為。        
②「心理的虐待」…言葉による脅し、無視、子どもの前で家族に暴力(DV)をふるう。
③「性的虐待」…子どもへの性的行為、児童ポルノの被写体にする。
④「ネグレクト」…食事を与えない、家に閉じ込める、病院に連れて行かない等。

   この中で最も多いのが「心理的虐待」です。暴言などで心に深い傷を負わせる。子どもは愛されていない、生まれてこなければよかったという深い悲しみに陥り、劣等感や無力感に悩み、自傷行為や破壊的行為に走ることも多いです。

 心理的虐待の次に多いのが「身体的虐待」です。子どもが言うことを聞かないから殴ったり、蹴ったり、熱くなったやかんやフライパンを押しつける、高い高いをしてわざと床や畳の上に落とす。我が子にここまでするのかと目を覆いたくなる惨事が多発しています。次に多いのが「ネグレクト」です。ネグレクトとは親として行うべき養育や監視をせずに、子どもを放ったらかしにしておくことです。子どもに食事を与えない、子どもを置いて長期に家を出てしまう等がこれにあたります。2004年に実話に基づいたYOU主演の映画『誰も知らない』が上映され、世間に衝撃を与えました。夫のいない母親は4人の子どもを抱えているが、あまり家には帰ってきません。たまに帰ってきたかと思うと、深夜遅く酔っぱらって、眠っている子を無理矢理起こし、母親とは思えないなれなれしさで子どもに接する。そして子どもにはアパートから一歩も出ないよう命じ、子どもたちはそれを従順に守り続ける。ある日母親は少しの金を置いて家を出てしまいます。ある男性と暮らすためです。子どもたちはいつか母親が帰ってくると信じながら、毎日を生き延びます。やがて水道が止められ、風呂にも入れず、水も飲めなくなってしまいます。しかし近所の公園で水を汲んでくることを覚え、残り少ないお金で買ったカップラーメンに公園の水を入れて皆で分けて食べる。そんな生活を続けていきました…。繰り返しますがこれは実話に基づく話です。

 今回紹介した親たちは、残念ながら現在一定数存在します。未熟で親と呼ぶに値しない大人がなぜ出現したのか。これからシリーズで考えていきたいと思います。つづく

13:30 | 投票する | 投票数(43)
2025/01/31

がんばれ先生方(監督から)

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 がんばれ先生方     監督 齊藤 秀樹

 子どもには無限の可能性があります。子どもは誰でもよい芽を持っています。私たち教師の仕事は、“子どもたちの持っている可能性やよい芽を、発見し、引き出し、伸ばし、輝かせてあげること”だと思っています。

 さて私は常々「子どもたちを輝かせるには、まず先生方が輝かなければならない」と思っています。学校の活力の原点は「活力ある先生方」の存在です。
 先生方が生き生きとして元気な学校は、子どもたちも元気です。元気な子どもたちが生き生きとした活力ある学校をつくります。そして活力ある学校には必ず活力ある先生方が生まれます。

 では先生方が、いつも元気に生き生きと(活力)働ける学校とは、どんな学校(職場)なのでしょうか。何事もうまくいっていて、課題もトラブルもなく、取り立ててやるべきこともない、楽な職場のことでしょうか。私はそうは思いません。
 なぜなら、様々な課題を解決していくことが学校現場の本質だと思うからです。何一つ解決するべき課題がないならば、少々大げさな言い方をすると、学校そのものが必要なくなります。これは、事件や犯罪が存在しない社会なら警察はいらず、世の中に病気やケガが存在しなければ病院もいらないというのと同じ理屈です。

 勉強ができない、運動が苦手だ、人と上手く付き合うことができない、悪いことをして人に迷惑をかけるなど、未熟な存在だからこそ子どもたちは様々な課題を持っています。この課題を解決するには、時間も労力もかかりますが、こうした子どもたちと真正面から向き合い、丁寧に粘り強く教え、育て、共に考え、汗を流すことで、できなかったことができるようになり、子どもの変容や成長が実感できたときに、教師のやる気は最高潮に達し、「やった。よっしぁー。」という成就感、達成感を味わうことができるのです。そもそも学校とはそういう職場であり、そこに学校という存在価値があります。

 しかし残念なことに、近年「教師は多忙だ」という面がクローズアップされ、今までにはなかった多忙さによる負担感によって心身を壊してしまう教員、志半ばで辞めてしまう教員が、増加の一途をたどっています。また最近は教師の仕事はブラックだという風潮が高まり、教師という仕事に就きたがらない「教員不足」という状況が大問題になっています。確かに教師という仕事は、境界線のない職務といわれるように、朝から晩までいくら働いても、一切残業手当も付かない特殊な職業です。

 私は「多忙」という言葉には2つの意味があると思っています。1つ目は「物理的な多忙さ」で、とても職務時間内では自分の能力ではやりきれない程の仕事量がある状態のことです。2つ目は「精神的な多忙感」で、自分の仕事にやる価値が見い出せない、やりたくもないことをやらされている等の「やりがいのない忙しさ」のことです。この必要感のない仕事への「負担感」や、自分のやりたいことができない「不満感」こそが、教師の活力を減退させる「多忙感」の正体です。
 
    私たちの教師の願いは、ただ一つ「子どもがよくなること」です。勉強でもスポーツでも人付き合いでも何でもかまいません。子どもの中に眠っている可能性を発見し、引き出し、伸ばし、輝かせ、自信を持たせることができれば、自分の仕事にやりがいと充実感が持てます。どんなに忙しくても、今の仕事に「やりがい」と「充実感」を持っている教員は、常に元気で生き生きとしています。そしてあまり「多忙感」を感じません。

 私が校長時代に教師のやる気を引き出し、活力ある学校を創るために大切にしていたことは…。
①教師がめざすのは「子どもをよくすること」という共通の価値観を持たせること。
②学校が何をめざし、どこへ向かおうとしているかを明確に示すこと。
③教師の全力こそが、全力を尽くしてがんばる子どもを育てるということ。           
④常に組織の中で「役立つ存在」として認められるよう心配りを忘れないこと。
⑤「学校としての判断や決断の責任は全て校長が取る」ことを宣言し、教師が安心して 子どもと全力で向き合える職場をつくること。

 がんばれ先生方。皆さんも応援してください。                     
                                                                              完

08:10 | 投票する | 投票数(105)
2025/01/24

「イチロー思考」について考える(監督から)

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 先日、アメリカの大リーグで活躍し、アメリカ野球の殿堂入りを果たしたイチロー選手を、新人時代から追い続け、その考え方や人物像について多くの著書を残している鹿屋体育大学の児玉教授の「イチロー思考」という講演を十数年前に聴き、当時大変勉強になった話を、久しぶりに思い出しましたので、今回はそれを紹介し、彼の成功の秘訣について考えてみたいと思います。

イチロー思考」について考える  監督 齊藤 秀樹

 今回は彼の持っている2つの力を中心に書いていきたいと思います。
【持続力】
   よくイチローを天才だという人がいますが、イチロー本人は「自分は天才ではないし、天才なんて言われたくない。」と言います。彼は小学校5年生の時から父親に連れられてバッティングセンターに毎日通い、現役を引退するまで血のにじむような努力を積み重ねてきました。本人曰く「自分はバットを振るのは好きではないが、振り続けていないとヒットが打てなくなるので、毎日振り続けている」そうです。そもそも天才というのは“努力しないですごいことができる人”のことで、イチローは長年誰よりもたくさんバットを振り続けてきた「努力の人」ということになります。彼を見ていると「質より量を稼ぐこと(たくさんやること)が大切」だということ。「努力は裏切らない」ということ。そして何より「一番うまい人が一番努力したら誰もかなわない」ということがよくわかります。

【モチベーション(やる気)】
   1つのことに熱中するためには「モチベーション」(やる気)を高め、維持し続けることが大切だと言われています。一般的にモチベーションを高めるためには「外発的動機」と「内発的動機」の2つがあります。

 「外発的動機」というのは、①「金銭報酬」(その結果に見合っただけの金銭がもらえること)、②「地位」(実力や結果に見合った地位や役職がもらえること)、③「責任」(役立つ存在として頼られ、責任ある仕事を与えられること)等が考えられます。

 それに対して「内発的動機」というのは、簡単にいうと「自己実現を図る」ことで、目標に向かって努力し、それを達成させる喜びのことです。イチローのモチベーションの根底は、何といってもこの「自己実現」へのこだわりです。完璧なバッターになりたいという思いから、彼は常に究極の自分を追い求めていました。9年連続200本安打という大リーグ記録を塗り替え、日本人としては前人未踏の4367本安打(世界記録)を達成した時でも、「もっと上手くなりたい」と日々思っていたそうです。

   ある研究によると、「モチベーション」と「目標設定」の間には相関関係があるそうで、簡単に達成できる低い目標や絶対に達成できそうもない高い目標を設定してしまうと、モチベーションは極端に落ちてしまいます。一番いいのは、もう少しがんばれば達成できそうな目標(60%達成可能)の時が、一番モチベーションが高くなるそうです。

 しかしイチローの場合は、達成可能な目標ではなく、遙かに届きそうもない高い目標設定することで、究極の自分を創り上げようとしていました。私たち一般人にはなかなかできないことですが、“一流になるということは、高い遠くの目標を持ち続けること”なのかもしれません。

 さて、我が子を将来一流のアスリートや芸術家にしたいと考えている方は多いのではないでしょうか。「努力の大切さ」「自己実現へのこだわり」「目標を持つこと」等のイチローの生き方や考え方は大切なヒントを与えてくれています。

08:28 | 投票する | 投票数(153)
2025/01/17

思春期の子の育て方②(監督から)

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「思春期の子の育て方」②  監督 齊藤 秀樹  
【思春期~青年期での親の在り方】
 先週は思春期の子どもの扱いや育て方で保護者の方が一番悩むのは、なかなか素直に言うことを聞かない、反抗的な言動が出てくることだと書きました。しかし発達心理学からすると「思春期に子どもが親に反抗するのはある意味当然であり、反抗しない方が心配である。」と考えます。したがって「うちの子には反抗期がない」ことを誇らしげに自慢する必要はないし、それがよい親子関係だとは必ずしも言えません。
 この時期にしっかり親離れしないと子どもはいつまでも独り立ちできないし、親も子離れできなくなってしまいます。
 
 この時期の子どもは「自分とは何者か」という“自分探しの旅”を始めます。自分はどんなものが得意でどんなものが苦手なのか。どんな個性や能力を持っているのか。今どんな生活を送り、どんな人たちとつき合いがあるのか等を手がかりに自分自身を理解していきます。そして自分が今まで生きてきた人生を振り返り、時に否定し、自己を再構築していきます。その自立のためのエネルギーが、今まで何でも言うことを聞いていた親への「不服従や反抗」という形で現れるのです。

 ではこの反抗期に親からの自立や子離れがうまくいかないと、その後どんな影響が出てくるのかについて考えていきたいと思います。
 まず1つ目は、エネルギーが家庭の外に向けて発散されるケースとして「非行や犯罪などの反社会的行為」となって現れることがあります。親との葛藤があるにも関わらず、その不満が親に直接向くのではなく、社会や世間に向けられ非行、犯罪という形で現れる場合です。
 2つ目は、とても悲惨な結果として起こりうる「家庭内暴力や親殺し」というケースです。本当は一人前の人間として認めてもらいたいのに、上手く関わってもらえない(相手にしてもらえない)。そのやり場のないネガティブな思いが、親に暴力的に向けられてしまいます。子どもは親を傷つけたり殺したりすることで親を乗り越え、自己を確立しようとする場合もあります。
 3つ目は、親との関係の不満が子ども自身の内側にたまるというケースです。そのよい例が「引きこもり」です。家から何ヶ月も何年も外に出ないで家の中にいる。そして家にずっといながら、インターネットなどのメディアとのみ外部とつながる。食事は親から与えてもらうが、生活や趣味には干渉させない生活を送るという場合です。
 これは、親が自分を独立させてくれない結果として現れる現象の一つです。外とのつき合いを持てずに、親のなすがままに育てられ大きくなった弊害といえるでしょう。

   もう一つつけ加えると、現在は自立して大人になるまでの時間(青年期)が非常に長くなっているように感じます。20才(18才)で成人になることは変わりませんが、例えば就職、結婚、子育て、持ち家は一昔前に比べて確実に遅くなっています。「自分探し」がなかなか終わらずに長い年月を費やす若者が増えています。「パラサイト・シングル」と揶揄されるように、いつまでも独身でニートやフリーターを続けながら親に「寄生」している若者は現在も少なくありません。
    更に、皆さんは1992年のTBSで放映された「ずっとあなたが好きだった」というドラマを知っていますか。主人公の佐野史郎扮する中年の「冬彦さん」は、いつも従順に母親の言うことを聞きます。この母親は息子の結婚生活に干渉し、妻よりも率先して愛情表現をし、独立して家庭を持った息子の生活に平気で割り込んでいく。当時は多くの視聴者から「気持ち悪い」「異常な関係だ」と騒がれたほどの親子関係でした。
 
  「いつまでも あると思うな 親と金」といわれるように、子育ての最終目標は子どもの「自立」です。特に思春期から青年期にかけては、子どもにやたらとべたべたしない方がよいし、事細かに親の考えを押しつけて、子どもの主張を抑え込み、親の前で「よい子」を演じさせてはいけません。これは非常に危険であり、ふとしたきっかけて思いもよらない行動に発展しかねない可能性を持っています。思春期以降の子育てで一番大切なことは、発達段階や年齢に応じて「子どもとの適切な距離感を持つ」ことだということを覚えておいてください。


07:49 | 投票する | 投票数(197)
2025/01/10

思春期の子の育て方(監督から)

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 思春期の子の育て方 監督 齊藤 秀樹

【小学校高学年~】
   この時期になると子どもは親との付き合い方をかなり転換させるようになります。一緒に外出することを避けるようになったり、友人には話せても親には話せない秘密を持ったりします。また今まで絶対だった親に対してその生き方や考え方、更に毎日の生活の在り方に疑問を持つようになり、親が自分にいちいち指図してくるのがうっとうしくなってきます。ではまず今回はこの思春期の特徴から書いていきます。

 「思春期」というのは、個人差が非常に大きいものです。小学校4年生ぐらいから始まることもあるし、中学2年生ぐらいからの子もいます。 
   思春期というのは、その出発点は“肉体の変化”です。胸がふくらんできたとか、生理が始まったとか、ヒゲが生えてきたとか、夢精をしたとか…こういう現象が思春期の入り口です。実はこの肉体の変化が「心」に大きな動揺や変化をもたらすのが思春期なのです。
 
 思春期というのは、人生の嵐の時代ともいえる時期で、精神的なブレが激しい時期です。この時期を別名「第2反抗期」とか「半熟期」とも呼んでいます
 思春期の特徴は、あまり大人が干渉しすぎると、「私はそんなに子どもじゃない。放っておいてくれ。」と言うし、じゃあ「任せるよ。」と放っておくと、「助けてよ。私はまだそんなに大人じゃないのよ。」と甘えてきたりします。また、朝は「パパ大好き」だったのが、夕方には「うるせー、おやじ!」にコロッと変わったりします。家にいても、学校にいても、何がそんなにおかしいのかと思うくらい、キャッ、キャッ、キャッ、キャッと大騒ぎし、箸が落ちても笑い転げていた子が、夜になるとムスッとして部屋にこもり、どうしたのかと聞くと、「この世で、私ほど不幸な子はいない。」なんて言ったりもします。
 このような両極端な態度の変化が、「思春期の子は扱いが難しい」といわれる所以なのでしょう。

 また、典型的なこととして、人間関係が縦社会から横社会に変わるようになります。小学校の中学年くらいまでは、先生がこう言っていたとか、お母さんがああ言ったというように、先生や親は絶対でした。ところが思春期に入ると大人よりも友だちを大事にしだします。「あの子とはつきあってはいけません」とか「もっとよい友達を作りなさい」なんて言うと、「お母さん、友だちの悪口だけは絶対に言わないで」と言うようになります。 

   思春期の子どもの扱いや育て方で保護者が一番困るのは、なかなか素直に言うことを聞かない、反抗的な言動です。これは一言で言えば“精一杯の大人への背伸び”です。「もうぼくは子どもじゃないんだから、いちいち言われなくてもわかっている。放っておいてくれ。」すなわち、「一人前の人間として認めてくれ」という親からの分離、自立への第一歩です。ですから今までよりも少し多く「承認」(子どもを一人前の人間として、受け入れ認めてあげること)してあげることが大切です。しかしだからといって、子どもの言うことを全て受け入れ、子どもの言いなりになってはいけません。思春期の子どもは、親に反抗すれば叱られることは百も承知です。わかっていてわざとやっているのです。自分の主張がどこまで通じるのかを試しているのです。だから、ダメなこと、認められないこと、譲れないことに関しては、断固「拒否」することは大切な教育です。
 この「承認」と「拒否」を上手く使い分けることが、思春期の子の扱いで最も大切なポイントとなります。
 次週はこの時期とその先(思春期~青年期へ)の親の在り方について考えていきたいと思います。


08:13 | 投票する | 投票数(240)
2025/01/01

3学期(後期後半)の意義(監督から)

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 あけましておめでとうございます(日本語)・Happy New Year(英語)・Bonne Annee(フランス語)・Ano Nuevo(イタリア語)・Gutes Neues Jahr(ドイツ語)・新年快楽(中国語)…。 
 本年も白井アスレチックアカデミーをよろしくお願いいたします。
           
   3学期(後期後半)の意義 監督 齊藤 秀樹

【1年のまとめ】 
  3学期(2期制の学校は後期後半)は学年最後の学期であり、1年のまとめの学期でもあります。1・2学期でやり残したことや、できなかったこと、わからなかった内容はないかもう一度振り返ってみて、全ての面で総点検をし、3学期中にしっかり身につけておきましょう。
 物事には「段階・系統」というものがあります。2年生のかけ算九九ができなければ、その後に出てくる分数や小数のかけ算はできないし、高学年で出会う通分や約分もできません。また、水に浮けない子は決して泳げないし、自分のことも自分でできない子が、他人のために何かをやってあげるなんて無理な注文です。

 このように今やっておかなければならないことをそのままにしておくと、必ずその「つけ」が後々の自分を苦しめることになります。簡単な例えを出して説明すると、4年生で習得すべき学習内容が「10」だとすると、4年生で「7」しか身につかなかった子は、次年度の5年生では10+3=「13」の内容を理解し、身につけなければならないことになります。更に、小学校時代に身につけるべき習得内容を「100」として、6年生終了の段階で「60」までしかできていなければ、中学校では「140」の内容を身につけるために大変な努力をしなければなりません。こういうことが繰り返されていくと、いざ自分の進路選択をするときになって、「あの時しっかりやっておけばよかった。」と後悔しても取り返しがつかないことになってしまいます。
 どうぞまとめの学期である3学期のうちに、やり残し、持ち越しがないようがんばりましょう。

【1年の始まり】
  ○年生という学年はそのままですが、3学期は令和7年(2025年)のはじめでもあります。日本は古くから「1年の計は元旦にあり」と言われてきました。年の初めは誰しもが「今年こそは…」という目標を持つはずです。「始めよければ全てよし」「千里の道も一歩より」「はじめのボタンを掛け違えると、最後のボタンははまらない」等のことわざがあるように、年の初めに「最初の一歩」を大切にしたいものです。
 以前にも何度か書きましたが、ノーベル賞受賞者の数学者である広中平祐氏は「人は目標を持つか持たないかで、その後の結果に大きな違いがでる」と言っています。
 新年に当たり、まずは今年の目標をしっかり持って、できるだけ早く「最初の1歩」を踏み出しましょう。

【次学年への心の準備】
  「1月は行く。2月は逃げる。3月は去る。」と言うとおり、3学期は1年で一番短い学期です。あと少しで、1年生は2年生に。4年生は高学年(5年生)に。5年生は最高学年(6年生)に。そして、6年生は中学生になります。
 実はこの進級・進学時に、上手く環境やシステムに適応できずに不登校になってしまう子が結構多いのです。特に6年生は「中一ギャップ」と言って、中学1年生になると小学校6年生の約3倍の子が不登校になってしまうそうです。次学年になってから適応していければいいのですが、今のうちから1年生と2年生の違い、低学年と中学年の違い、中学年と高学年の違い、そして小学校と中学校の違いを知り、その準備をしていくことは大切なことです。
 そういう意味で、3学期は「次学年への心の準備」でもあることを自覚して生活してほしいと思います。

 1月の始業式で、私はこのような話を毎年子どもたちにしていました。「今までと同じではない」という新たな気持ちで、3学期をスタートしてほしいと願っています。

07:38 | 投票する | 投票数(288)
2024/12/20

教育に「競争」は必要である(監督から)

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  教育に「競争」は必要である 監督 齊藤 秀樹      

 運動会やマラソン大会は、そのスポーツの持つ特性上、大勢の友だちや保護者の方々が見ている前で、ハッキリと勝敗や順位が決まる行事です。勝てば皆から喝采を浴びて良い気持ちになる反面、負けたときはとても悔しく悲しい気持ちにもなります。
  これを受けて近年「たくさんの観衆の前で勝敗や順位をつける競走は好ましくない。」「遅い子がかわいそうだ。」という一部の保護者からの強い反対論に押され、運動会では徒競走を中止する学校。みんなで手をつないで横一線にゴールする学校。マラソン大会では自分が○分○秒で走るという申告タイムを事前に決めさせて、そのタイムに近い子どもから順位をつけていくという学校まで出てきてしまいました。

  これは間違っていると思います。

 数多くの多様な個性や能力を持った子どもたちが集まり生活する学校では、「みんな違ってみんないい」し、「人との違いを認め、個性を尊重し合える心の強さや大きさを持ってほしい」と思っています。「ひいきだ」という言葉を気にした“形式的平等”は、子どもたちから「勝つという目標に向かって、自分なりに精一杯がんばる」という“活力”を減退させます。
 
 日常の学校生活では控え目でおとなしく目立たない子でも、「かけっこ」だけは得意で、唯一の特技だという子が、運動会やマラソン大会で晴れがましくゴールテープを切り、輝いたっていいじゃないですか。「ずるいな。あいつばかり目立って。むかつく。」なんて思う子は、あまりに心が貧しすぎます。私は素直に「すごいね。さすがだね。おめでとう。よーしぼくは得意の漢字でがんばるぞ。」という子を育てたいのです。
 
 走るのが苦手で徒競走がビリだって、歌が抜群に上手い子や、計算が速い子、字がきれいな子、友達を作るのが上手な子、健康で一日も学校を休まない子はたくさんいます。子どもたちには誰にでも、これだけは人に負けないというものが必ずあるはずです。
 この世の中に競争のない世界なんてありません。子どもの頃に競争することから遠ざけられた子どもたちが、社会に出て行ったとき、現実の世界に対応することができず辛い思いをするのは本人です。
 
 自分の得意不得意を事実として認め、自分探しをしながら自分に一番合った職業を選択し、競争社会をたくましく生き抜いていくための力を、子どもの頃から身につけていくことはとても大切なことだと思います。
  
 「競争」では負けた悔しさと勝った喜びを味わうことができます。私は負けた悔しさがあるからこそ、勝った喜びがあると思っています。そしてこの体験は、飛び上がってバンザイしたくなるほどの感動・感激体験として心と体の中に深く刻み込まれます。
 同時に、自分と他人との違いを受け入れ、認め、尊重する豊かな心を育てます
 
 私たちの仕事は一人ひとり違う個性や能力を持った子どもたちを、あらゆる場面で、一人でも多く輝かせることだと思っています。
 競争心は、優劣がつくという厳しい現実の中で、勝利という目標に向かって、少しでも自分を成長させるために、自分の持っている無限の可能性を引き出し、伸ばすために“必要だ”と思います。

 皆さん、どうぞよいお年をお迎えください。

07:55 | 投票する | 投票数(335)
2024/12/13

大人は、誰も、はじめは、子どもだった(監督から)

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“大人は、誰も、はじめは、子どもだった” 監督 齊藤 秀樹  

   私は柏市という所に住んでいます。そして地元の柏にはたくさんの友人たちがいます。もちろん一番多いのは同業者である教員ですが、その他にも、会社員、市役所、医者、会計士、床屋、葬儀屋、焼き鳥屋、建設業、市場関係者…実に様々です。みんな40年来の友人たちですので、いつも「先生」とか「ひでき」と言って仲良くしてくれる大切な仲間たちです。

 そんな友人たちが集まると、よく「今の教育は」とか「今の子どもたちは」という話題が出てきます。そしていつもきまって「今の子どもたちは昔と違って…」「俺たちのガキのころには…」という話になってきます。例えば「いじめなんてものは、昔からどこにでもあったものだよ。弱虫で泣き虫の奴はよくいじめられていたもんだ。しかし今のいじめっていうのは、陰湿でジメジメしてしているし、加減というものがわかっていないんだ。その辺が昔とは違って悪いところだな。」なんて言って、眉をひそめて知ったような顔で教育論議に華を咲かせています。私はいつもこういう「昔と比べて、今の子どもたちはどうしようもない」的な発言を聞くと腹が立ってきます。

 それは自分が教育関係の仕事をやっているからというのではなく、子どもというのは大人が作った社会の中で生きているのであって、子どもの社会というものが大人の社会とは別に存在するわけではないと思っているからです。「今の子は、わがままで、我慢ができず、陰湿で、世の中をなめている」そんな子をつくったのは、間違いなく大人の責任であって、大人の世界と子どもの世界が別々にあると錯覚しているのは、大人が子どものことをあまりに知らなすぎる(無関心すぎる、放ったらかしすぎる)からに他ならないと思います。別の言い方をすると、大人は大人、子どもは子どもで生活し、両者の距離が離れすぎていると言えるかもしれません。

 皆さんは今子どもたちの間で流行っている遊びやテレビ番組、ゲームや漫画、子どもたちが集まる場所等をどれくらい知っていますか。数年前にある教育調査で「子どもの思いやり度調査」というのがあり、その中の項目に「好きなテレビをがまんして家族に譲ったことがありますか。」という質問に対して、多くの子が「自分の部屋にあるから経験がない。」と答えていました。家族の各自が自分の部屋にこもって、お互いの世界には干渉しないで過ごすという家庭も多いのではないでしょうか。最近、頻繁に起こっている青少年の凶悪な犯罪の中には、毎日生活を共にしているにもかかわらず、我が子の変化や歪んだ性癖に、親が全く気づかなかったという事件が数多く報道され、世間を驚かせています。

 要するに私が言いたいのは、子どものすることを「くだらない。ばかばかしい。何をやっているんだ。」という大人の目で見てしまわずに、大人が子どもの世界まで降りていって、趣味や楽しみを共有する(共に楽しむ)ことが大切ではないかと思います。

 星の王子様という本の冒頭に“大人は、誰も、はじめは子どもだった”という名言がありますが、親になった今、このことを忘れずにいられる大人はとても少ない気がします。子どもを理解し、賢くよりよい子に育てるためには、まず「自分が子どもだったらこんなことをしてほしいな。」「あの時の父親からの励ましが、今の自分の活力の源になっているな。」「こんなことはやってほしくないな。」等の“子どもから見た目”(子どもの視点)を持つことだと思います。

 「親」という字は「木」の上に「立」って「見」ていると書きますが、たまには木から下りて、子どもと同じことを一緒にしてみることも必要です。ただしここで大切なのは「遊んであげる」ではなく「共に楽しむ」(自分も楽しい)という関わり方が理想です。そうでないと長くは続きません。

 これから年末年始に向かいます。家族みんなで年末大掃除、クリスマス、おせちづくり、初詣、書き初め、スキー、帰省…ゆっくり子どもと過ごしながら、子どもと関わり、子どもの世界をしっかり理解する時間を作ってあげてください。

 “子ども笑うな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの”

07:21 | 投票する | 投票数(380)
2024/12/06

「男の子」と「女の子」考(監督から)

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 先週の「父親」と「母親」はいかがでしたか。あるお母さんから「先週の『監督から』を読んで、今一度夫婦でお互いの役割や教育観の折り合いをつけるよい機会になりました。ありがとうございました。」といううれしい感想をいただきました。

 「男の子」と「女の子」考  監督  齊藤 秀樹

 家庭教育学級などで、お母親さん方に「子育て」や「しつけ」についての話をすると、「男の子の育て方と女の子の育て方について教えてください。」という要望や質問がよくあります。そこで今回は先週の「父親と母親」に引き続き、「男の子と女の子」の違いとその育て方について少し考えていきたいと思います。

 まず最初に「性」(男女)という言葉には2つの側面があるということを理解する必要があります。1つめは「生物的・肉体的な性別」、2つ目は「社会的・文化的な性役割」の2つです。人間は生まれ持っている自分の性(生物的、肉体的な性別)を土台に、社会の中で一定の役割や相応しい行動を取るように周りから期待され、それを自分の特性として身につけ(社会的、文化的な性役割)ていきます。

 小学校5年生を対象とした「子どもの性意識」という調査データによると、自分の親から「男なんだから~」「女なんだから~」と言われた経験は、女の子の場合「女なんだからきちんとしなさい」が6割、「女なんだから行儀よくしなさい」が5割、男の子の場合は「男なんだから女の子に負けてはいけない」が7割、「男なんだから泣いてはいけない」が6割いたそうです。このように親の多くは「男は男らしく、女は女らしく育てたい」と考えていることがわかります。この結果、当然子どもは無意識のうちに親の期待に応えようとします。同じ調査の中に「自分の良い所はどこですか」の問いに、男子は「元気な所、たくましい所、頭がよい所」を多くの子があげ、女子は「おとなしい所、かわいい所、おしゃれな所」をあげていることからも明らかです。

 このことは学校生活の中でも様々な活動に影響を及ぼしています。例えばクラスの中の係活動では「保健係」と「飼育係」の2つは、圧倒的に女子がやることが多く、やはり女の子は伝統的な女性の役割とされている“奉仕・世話”を好むという特徴があります。一方男子は、よくやる活動として「休み時間は元気に外で遊ぶ」「授業中は積極的に手を挙げる」等が女の子の割合より高く、男の子には“積極性・活発さ・リーダーシップ”が求められていることがわかります。このように子どもたちが抱く「男女観」あるいは「性役割」というものは、大人が築いた社会や意識というものが、如実に反映されているといえるでしょう。

 さて日本には古くから「男子厨房に入らず」「男は船で女は港」「男は仕事で女は家庭」等の言葉があります。しかしこれは親が育ってきた(育てられてきた)経験や風習によって創り上げられた意識であり、これから21世紀を生き抜いていく子どもたちのそれとは違うのではないかと思います。前述のように、肉体的な性別は不変ですが、社会的な性役割は、時代や社会の変化に伴って変化していくべきなのではないかと思います。

  結論を言います。「男だから~してはいけない」とか「女のくせに~するな」という大人が勝手に決めた価値基準によって“その子の持っている個性や能力や可能性というものが制限されてはならない”ということです。面倒見のよい保健係の男の子がいていいし、女の子が運動会の応援団長をやってもいいはずです。

 「女の子を女の子らしく育てたい」というのはよいことだと思います。しかし「女のくせに~してはいけない」とか「女なんだからこうあらねばならない」という言葉を使って、無意識に子どもの特性や行動を制限してはいけないと思います。子どもたちが本当の意味で、自分の「性」に誇りを持ち、一人ひとりが持っている特性を生かして、堂々と生きていける、そんな社会が来てほしいと心から願っています。
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2024/11/29

「父親」と「母親」考(監督から)

Tweet ThisSend to Facebook | by:スタッフ
「父親」と「母親」考   監督 齊藤 秀樹
  
    12月に入りました。今年の年末年始は家族揃ってゆっくり過ごせますか。帰省する子、旅行に行く子、遊園地に行く子、アウトレットやショッピングモールのバーゲンに付き合わされる子など、年始には子どもたちが楽しそうに話す冬休みの思い出を楽しみにしています。
   さて今週はせっかくの機会ですので、家族(父親と母親)について、私の実体験を基に考えてみたいと思います。

   私は小学校6年生の時に、毎朝サッカーの練習に通っていました。両親は「子どもが好きでやっていることだから」ということで喜んで送り出してくれていました。そんなある日のこと、私はその日に限ってサッカーの練習に行きたくなくなり、布団をかぶってゴロゴロしていました。すると隣の部屋から父親の「あいつは何をしているんだ。自分からやりたいと行ってやり出したことを、途中であきらめるような奴はダメだ。」という野太い声が聞こえてきました。私は「まずい。」と思い、自分が父親にたたき起こされる姿を想像しながら布団の中で小さく身を潜めていました。
 すると母親が「そっとしておきましょうよ。あの子が起きてこないくらいだから、きっと何か考えがあるのでしょう。」といういつになく強い口調の声が聞こえてきました。それからしばらくの間、父親と母親が話していましたが、結局私が起こされることはありませんでした。

 その一部始終を布団の中で聞いていた私は、自分のしたことを深く反省しました。と同時に何ともいえない嬉しさを感じました。それは「私は信じられている」という嬉しさでした。本当はサッカーに行きたくない理由など何もなかったのに、ただ何となく行く気がしなかっただけだったのに、母親は「あの子はそんな子ではない」と私を信じてくれました。一方父親はおそらく私の心の中にある甘さ(さぼり)を見抜き許せない気持ちになったのでしょう。

   このように私は、常に厳しい父親と、やさしい母親という異質の2人によって育てられてきました。ある本によると、本来父親は「切る」存在で、母親は「包む」存在であると書いてありました。例えば、我が子が非行に走り事件を起こした時に、我が子であっても悪いことをしたのは事実だから許さないと、子どもを「切る」のが父親で、悪いことをしたのは確かだが、我が子なんだから何とか救いたい、助けたいと「包む」のが母親だといいます。人によっては「ひっぱる」のが父親で、「なだめる」のが母親だという人もいます。

    しかし最近この図式が変わってきているような気がします。昨年行った「子どもが求める大人像」の調査を見ても、父親を厳しい人と捉える子より、やさしい人と捉える子の方が圧倒的に多いようです。また反対に母親をやさしい人と捉えるより厳しい人と捉える子が最近増えてきているようです。

 即ち、父親がどんどん優しくなり、母親がどんどん厳しくなって、父親と母親の違いが無くなり「同質化」が目立ってきているようです。今の時代は、両親の共働きが普通になり、互いに仕事や趣味を持ちながら、共にパートナーを組んで、同じように子育てをしていくことが現実的で理想的なのかもしれません。要は「同質」か「異質」かではなく、必ず両親の価値観と教育方針は一致させ、その上でお互いの役割分担をよく話し合い共に子育てをしていくことだと思います。
 
 皆さんのご家庭はいかがですか。

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