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          齊藤 秀樹  監督

 
 

監督から

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123
2025/08/29new

「付き合う」から「楽しむ」へ(監督から)

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「付き合う」から「楽しむ」へ   監督 齊藤 秀樹

 夏休みは家族揃ってゆっくり過ごせましたか。帰省して祖父母と再会した子、家族旅行で温泉に行き、美しい自然を満喫してきた子、遊園地やテーマパークでたっぷり遊んできた子、アウトレットやショッピングモールのバーゲンに付き合わされた子…。子どもたちが楽しそうに話す夏休みの思い出は、各家庭様々だったようです。

 さて『星の王子様』という本の冒頭に「大人は、誰も、昔は子どもだった」という有名な言葉があります。しかし、このことを忘れずにいる大人は、とても少ない気がします。教育や子育ての話をする大人たちは必ず「今の教育は…。今の学校は…。今の子どもたちは…」という話題から入り、最後には「今の子は昔と違って…、俺の子どもの頃にはもっと…、全くなっとらん。」ともっともらしい教育論を展開します。
 
   しかしよく考えると、今の子どもたちは、大人がつくった社会の中で生きているわけで、子どもの社会というものが、大人の社会とは別に存在するわけではないのです。今の子が「すぐにあきらめて、がまんができず、他人のことを考えない、わがままな子どもたち。」だとしたら、こんな子どもたちを作ったのは、大人の責任であって、子どもたちが勝手にいつの間にかそうなった訳ではないと思います。
 それなのに、なぜ大人の世界が子どもの世界と「別のもの」という錯覚を起こしてしまうのでしょう。それは大人があまりにも子どもの世界を知らなすぎる(無関心すぎる)からだと思います。別の言い方をすると「大人は大人、子どもは子どもで生活し、その距離が離れすぎている」と言えるかもしれません。

    皆さんは、子どもが見ているテレビや漫画、好きなゲームや今流行っている遊びをどれくらい知っていますか。夜8時までは子どもの時間、それ以降は大人の時間と分けている家庭、チャンネル争いがわずらわしいから複数の部屋にテレビを置いて、別々に見ている家庭…、親子が同じ部屋で1つのテレビをワイワイ言いながら見ているのと、別々の部屋で黙って見ているのとでは、どちらが明るく温かい家庭なのでしょうか。
 学校でも「最近の先生方は子どもたちと一緒に遊ばなくなった」と言われます。確かに先生も、部活の朝練をし、一日6時間の授業を教え、忙しく事務仕事をこなした上で、休み時間に子どもと外で遊ぶのは重労働です。しかし考え方を少し変えて「子どもと遊んであげる」ではなくて「(自分も)子どもと楽しむ」という発想を持つとよいと思います。同じように、子どものやることをバカバカしいと大人の目で見てしまわずに、子どもの世界まで降りていって一緒になって楽しんでしまえばよいのです。
 子どもたちの中には「お父さんは休みの日になるといつも大好きなミニ四駆で、一緒に競争して遊ぼうと言うんだよ。」「家のお母さんは、私が買ってきた漫画をいつも楽しみにして一緒に読んでいるんだよ。」という子がいます。なんて素敵な両親なのでしょう。

    私は教師という仕事に就いてから今まで「子どもからの視点を忘れない」という信念を持ってやってきました。「自分が子どもだったら、こんなことをしてほしいな。」「こんなことをされたら嫌だろうな。」という視点です。子どもは一緒に遊んでくれる先生が大好きです。だから私は校長時代、毎日休み時間には外に出て子どもたちと遊んでいました。「いつもお忙しいのに…。いい年をしてケガでもしたら…ご苦労様です。」と心配してくれる人もいましたが、私は何も付き合いやサービスでやっているわけではありません。子どもと遊ぶのが好きだから、楽しいからやっていただけです。

  さて、保護者の皆さんの夏休み中のがんばりを否定するつもりは全くありませんが、今多くの保護者が子どもたちのために朝から晩まで必死で働き、お金を稼ぐことで、子どもに好きなものを買い与え、遊園地や旅行に連れて行き、おいしい店で外食をするという、誰かが考えたこの「理想的な家族像」をめざして、日々無理に無理を重ね疲れ切っているような気がしてなりません。
 私は年数回の贅沢よりも、日々の子どもとの関わりや触れ合いを大切にし、子どもの前では決して夫婦ケンカや悪口、陰口を言わない。いつも家族の笑顔が絶えないようなやさしく温かな毎日にこそ、本当の「幸せ」はあると思っています。

12:41 | 投票する | 投票数(1)
2025/08/22

「男の子」と「女の子」考(監督から)

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 さて白井アスレチックアカデミーのホームページ及び、この「監督から」を毎週ご愛読いただきありがとうございます。最近特に「親として一番大切なこと」や「父親と母親の役割」について大変多くの保護者の方々(他チームの保護者含む)から反響があり、「わかっているつもりでいたが、今一度夫婦で子育てや役割を考え直すよい機会になりました。ありがとうございました。」という、うれしい感想を複数いただきました。

「男の子」と「女の子」の育て方   監督 齊藤 秀樹

 さて今回は前回の「父親と母親の役割」に引き続き、「男の子と女の子」の違いとその育て方について考えていきたいと思います。

 まず最初に「性」(男女)という言葉には、2つの側面があるということを理解する必要があります。
  1つ目は「生物的・肉体的な性別」、2つ目は「社会的な性役割」の2つです。人間は生まれ持っている自分の性(生物的・肉体的な性)を土台に、社会の中で一定の役割やそれに相応しい行動を取るよう周りから期待され、それを自分の個性や特性として身につけて(社会的な性役割)いきます。

 ここに小学校5年生を対象とした「子どもの性意識」という調査があります。この調査によると「男なんだから~」「女なんだから~」と言われた経験は、女の子の場合「女なんだからきちんとしなさい」が6割、「女なんだから行儀よくしなさい」が5割、男の子の場合は「男なんだから女の子に負けてはいけない」が7割、「男なんだから泣いてはいけない」が6割いたそうです。このように多くの親は「男の子には男らしく、女の子には女らしく育てたい」と考えていることがわかります。この結果、当然子どもは無意識のうちに親の期待に応えようとします。この調査の中に「自分の良い所はどこですか」という問いがありますが、男の子は「元気な所、たくましい所、頭がよい所」をあげる子が多く、女の子は「おとなしい所、かわいい所、おしゃれな所」をあげていることからも明らかです。

 実はこのことは、学校生活の中でも様々な活動に影響を及ぼしています。例えばクラス内の係活動では「保健係」と「飼育係」の2つは圧倒的に女の子がやることが多く、やはり伝統的な女性の役割とされている“奉仕と世話”を好むという特徴があります。一方男子は、よくやる活動として「授業中は積極的に手を挙げて発言する」「休み時間は元気に外で遊ぶ」等が女子の割合より高く、男の子には“積極性や活発さ、リーダーシップ”が求められていることがわかります。
 このように子どもたちが抱く「男女観」あるいは「性役割」というものは、大人が築いてきた社会や意識というものが、如実に反映されていると言ってよいでしょう。

 さて日本には古くから「男子厨房に入らず」「男は船で女は港」「男は仕事で女は家庭」等の言葉が残っています。しかしこれらは、親が育てられてきた経験や風習によっていつの間にか創り上げられてきた意識であり、これからの未来をたくましく生き抜いていく子どもたちのそれとは別に考えた方がよいのではないかと思います。女性の社会進出が進み、共稼ぎが普通になってきた現在、互いに仕事や趣味や持ちながら、共にパートナーを組んで生活していく時代が必ず来ると思います。
  前述のように、肉体的な性別は不変ですが、社会的な性役割は、時代や社会の変化に応じて変化していくべきではないかと思っています。                             

 要するに何を言いたいかというと、「男だから~をしてはいけない。」「女のくせに~するな。」という大人たちが勝手に決めた価値基準によって“その子の持っている個性や能力や可能性というものが制限されてはならない”ということです。面倒見のよい保健係の男の子がいていいし、女の子が運動会の応援団長をやってもいいはずです。

 「女の子を女の子らしく育てたい」というのはよいことだと思います。しかし「女のくせに~してはいけない」とか「女なんだからこうあらねばならない」という言葉を使って、無意識のうちに子どもの活動を制限してはいけないと思います。子どもが本当の意味で「自分の性」に誇りを持ち、一人ひとりが持っている個性や特性を活かして、堂々と自分らしく生きていける、そんな社会が来てほしいなと心から願っています。


07:14 | 投票する | 投票数(36)
2025/08/15

「父親」と「母親」考(監督から)

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「父親」と「母親」考   監督 齊藤 秀樹

 私の両親は共に東京都で小学校の教員をしていました。父親は山梨県、母親は徳島県出身で、職を求めて都会へ出てきました。2人ともいつも忙しく、私と妹は近所の方に幼児の時から預けられ、学校もそこから毎日通っていました。
 当時は生活していくのがやっとで、今の子どもたちのように家族で温泉旅行に行ったことも、遊園地に連れて行ってもらったことも、おいしい名店で外食したという記憶もありません。ただ唯一、年に2度山梨の実家に帰省し、祖父の作った干し柿と、祖母の作った水飴を食べるのが何よりの楽しみでした。でも、他人をうらやましいと思ったことも、自分が不幸だと思ったことも一度もありませんでした。忙しくお金もない家庭でしたが、両親はいつも私を理解し、精一杯の愛情を注いでくれていました。

   さて、私は小学校6年生の時に、学校の部活動でサッカーの練習に毎朝通っていました。両親は「子どもが好きでやっていることだから」ということで喜んで送り出してくれていました。そんなある日のこと、私はその日に限ってサッカーの練習に行きたくなくなり、布団をかぶってゴロゴロしていました。すると隣の部屋から父親の「あいつは何をしているんだ。自分からやりたいと行ってやり出したことを、途中であきらめるような奴はダメだ。」という野太い声が聞こえてきました。私は「まずい。」と思い、自分が父親にたたき起こされる姿を想像しながら布団の中で小さく身を潜めていました。
 すると母親が「そっとしておきましょうよ。あの子が起きてこないくらいだから、きっと何か考えがあるのでしょう。」といういつになく強い口調の声が聞こえてきました。それからしばらくの間父親と母親が話していましたが、結局私が起こされることはありませんでした。

 その一部始終を布団の中で聞いていた私は、自分のしたことを深く反省しました。と同時に何ともいえない嬉しさを感じました。それは「私は信じられている」という嬉しさでした。本当はサッカーに行きたくない理由など何もなかったのに、ただ何となく行く気がしなかっただけだったのに、母親は「あの子はそんな子ではない」と私を信じてくれました。一方父親はおそらく私の心の中にある甘さ(さぼり)を見抜き許せない気持ちになったのでしょう。

    このように私は、常に厳しい父親と、やさしい母親という異質の2人によって育てられました。ある本によると、本来父親は「切る」存在で、母親は「包む」存在であると書いてありました。例えば、我が子が非行に走り問題を起こした時に、たとえ我が子であっても悪いことをしたのは事実だから許さないと、子どもを「切る」のが父親で、悪いことをしたのは確かだが、我が子なんだから何とか救いたい、助けたいと「包む」のが母親だといいます。人によっては「ひっぱる」のが父親で、「なだめる」のが母親だという人もいます。

    一昔前の父親は怖くて威厳のある存在でした。子どもが何か曲がったことをすれば、父親から毅然とした態度で叱られました。時にはゲンコツが飛んでくることもありました。人の道に背くことをしたとき、人様に迷惑をかけたときには、こっぴどく叱られたものです。また父親は一家の大事な決定のキーパーソンでもありました。進学や就職、あるいは一人暮らしや結婚などの人生の選択においては、父親に納得してもらうのが一つの難関でした。それほど父親は一家の大黒柱として君臨していました。

    しかし現在この図式が変わってきているような気がします。子どもたちに話を聞いてみても、父親を「厳しい人」と捉える子より、「やさしい人」と捉える子の方が圧倒的に多いようです。反対に母親を「やさしい人」と捉えるより「厳しい人」と捉える子が最近増えてきているようです。

 即ち、父親がどんどん優しくなり、母親がどんどん厳しくなって、父親と母親の違いが無くなり、両親の「同質化」が進んできているような気がします。まあ今の時代は、両親の共働きが普通になり、互いに仕事や趣味を持ちながら、共にパートナーを組んで、同じように子育てをしていくことが現実的で理想的なのかもしれません。しかし「同質」か「異質」か、どちらがよいかは別として、大切なことは、必ず両親の価値観と教育方針は一致させ、その共通理解の基で、お互いの役割分担をよく話し合い、共に子育てをしていくことだと思います。 
                      皆さんのご家庭はいかがですか。

08:16 | 投票する | 投票数(62)
2025/08/08

夏休みこそ「自然体験活動」を(監督から)

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夏休みこそ「自然体験活動」を   監督 齊藤 秀樹

 先日家の近くの公園を散歩していると、小学校低学年の娘を連れた夫婦が家族3人で遊びに来ていました。しばらく駆け回っていた娘が砂場に行って砂遊びを始めようとした時です。突然母親が「やめなさい。」と叫んで飛んでいって、娘を砂場から引きずり出して、「あなたは何をやっているの。砂場には犬や猫がおしっこをしているかもしれないでしょ。不潔だからこんな所で遊んではダメです。病気になったらどうするの。」とすごい剣幕で叱りつけていました。そしてその矛先はベンチに座っていた父親に向かい、「あなたが公園なんかに行こうっていうからいけないのよ。早く帰りましょう。」と言って3人で帰って行きました。それを見て思わず「うーん。砂や土って不潔なのかな。手を洗えばすむことなのに。一体何をしに公園に来たんだろう。」と思ってしまいました。

  国文一太郎という人が書いた『自然ーこのすばらしき教育者』という本の中に次のようなことが書いてありました。「自分も自然の一部である子どもは、自然のモノやコト、生きているものや生きていないものとの接触に忙しくなければならぬ。自然を友と見たてたり、敵と見立てたり、材料や道具にしたりして、活気ある接触をしなければならない。子どもは野蛮でいいのだから、草の葉や木の実をどんどん食ってよい。石ころ道やデコボコ道を裸足で歩いて、たまに転んで血など流した方がよい。…子どもはこういうことに忙しくなくてはならない。…」しかし、ここに描かれている子ども像というのは、今はすっかり遠い昔の世界の話になってしまっています。
  冬は暖かく夏は涼しい室内、おいしい食事、ゲームやパソコンや漫画等の魅力的な室内遊び、手伝いから解放された自由時間の増大…。これらは全て子どもたちを快適な室内に吸いよせる条件になっています。
  子どもたちを自然教室やキャンプに連れて行くと、毎年必ず体調を崩してしまう子に出会います。「暑くて眠れない」「虫の音がうるさい」「ウンチが出ない」「嫌いなものばかりだから食べたくない」…。コンクリートの中でクーラーをかけながら快適に眠り、生まれたときからウォシュレット付きの洋式トイレで快適に排便をし、好きなものだけを選んで食べてきたのですから、これは当然なのかもしれません。
  
  しかしこのような、自然とあまりにかけ離れた生活をしていると、厳しい環境の中では生きていけない“適応力の狭い人間”ができあがってしまいます。
  子どもを取り巻く生活環境の変化に伴って、子どもたちの自然体験や社会体験が喪失しかけている現在、いじめや暴力行為に見られるような相手の痛みや苦しみを感じられない子どもたち。テレビや雑誌に映し出された観光用の人工美に慣らされているため、生の自然の美しさや雄大さには感動できない子どもたちが増えていると思います。

   私が校長を務めた学校では、遠足・集団宿泊的行事を「観光旅行や社会科見学」から、下記のような「自然体験的活動」を中心とした行事に精選し実施していました。

 1年生 … 千葉市動物公園
 2年生 … 金田海岸(潮干狩り)
 3年生 … 清水公園フィールドアスレチック 
 4年生 … 筑波山(登山)
 5年生 … 自然教室(鴨川青年の家)磯遊び、飯ごう炊飯、キャンプファイヤー
 6年生 … ホワイトスクール(奥日光スキー体験)
             
    特に数多く勤めたニュータウン内の学校では、保護者の教育に対する関心が高く、大切に育てられてきた、明るく素直な子がとても多かった。しかし反面、どこか「たくましさ」や「粘り強さ」や「連帯力」が足りないと感じています。
 生の自然と対峙し、机上の学習では得られない「ものの見方、感じ方、考え方」を感覚として育てたい。自然の美しさや偉大さに驚き、やったことのない活動に挑戦したり、冒険心を養ったり、みんなと力を合わせて活動したり、最後まであきらめずに歯を食いしばってやり抜いたり、その場の環境に適応したりする体験活動を通して、「活力」と「柔軟で幅広い適応力」そして「多面的な生活能力」を育てていきたいと実践してきました。

 今後、益々国際化が進展し日本を飛び出して世界の人々と交流する機会が増えていくと思います。また、大きな環境の変化や自然災害がいつ起こるかわかりません。 
 先行き不透明なこんな時代だからこそ、子どものうちから自然体験活動を通して、適応力や生活能力を養っていくことは必要不可欠なことだと思います。
 お父さん、お母さん、どうぞこの夏休みを使って「自然体験活動」を経験させてほしいと願います。

10:30 | 投票する | 投票数(98)
2025/07/31

今一度「しつけ」について考える⑤(監督から)

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今一度「しつけ」について考える⑤    監督 齊藤 秀樹
                                           
 先週は「しつけ」の基本として、まず“子どもの人格を認め、一人前の人間として扱うこと。そして、温かく受け入れてあげること。”でまとめました。

 さて、この本ではこの後も第2、第3の課題が次々に専門家から出されます。その中には、「どんな理由があってもお金を与えてはならない。」とか、「門限を決めて、それを破ったら、絶対に家の中に入れてはいけない。」という、かなり厳しい課題が入ってきます。これを読んでいると、前回の“子どもを認め、受け入れろ”という内容と矛盾するように思いますが、それは違います。

 “子どもの人格を認め、受け入れろ”というのは、「まず、それをやれ。」ということで、決してズルズルと子どものわがままを通して、言いなりになれということではありません。たとえ家の中であっても、一つの共同体(小社会)として社会的規範(ルール)というものがあり、これを厳しく守らせることはとても大切なことなのです。

 この本を通して私たちが学ぶことは、『承認』(子どもを認め、受け入れてあげること)と、『拒否』(認められないことは、断固認めない、許さないこと)という2つの態度を、はっきりと使い分け、常に示し続けることが大切な教育(子育て)であり、これが“しつけ”の根本であるということです。
   実はこの本は、よく先生方の生徒指導研修会や保護者の家庭教育学級などで取り上げられています。私自身も何度となくこの話をしてきましたが、講義の後の参加者の質問の中でいつも一番多いのが、「承認」と「拒否」の境目、即ち「どこまでは認め、どこからは許さないのか」という判断が難しいという相談です。

 結論から書きます。私は‘親がよいと思ったことはよいし、ダメだと思ったことはダメ’なのだと思います。子どもの善悪の判断とか規範意識というのは、幼少時から言われ続けることによって、意識の中で形成されていきます。社会の変化に伴い個人の価値観が多様化する中で、個性化、自由化、子どもの人権…が尊重されるようになると、「自由でしょ。勝手でしょ。関係ないじゃん。放っといて。」という子どものわがままな主張が、当然認められるべき権利であるがごとく子どもたちの口から次々と出てきます。しかしこれに対しては、「ダメなことはダメ」「家ではダメ」「お父さんはダメ」(※注①)と堂々と言えばよいのです。
 そんなこと言ったって、なかなか子どもは素直に言うことを聞いてくれないという方もいるでしょう。確かに一昔前は、親の尊厳とか威厳というものが、社会の中でしっかりと認められ定着していましたが、今の時代はそれだけでは難しいかもしれません。
 親の方も子どもに「信頼される親」「尊敬される親」になる努力をしなければなりません。その原点は何といっても‘子どもへの理解と愛情’です。「あなたのことはわかっている。そして誰よりもあなたを愛し、大切にしている。」という根っこがあって、初めて成り立つものです。

 人間が人間を育てるのですから、“何を言うかより誰が言うか”によって、その影響や効力は全然違ってきてしまいます。大切なことは「誰が」の「誰」(※注②)になれるかどうか。これが勝負です。
 “大人は正しいことを教えてくれる存在。正しいことには逆らってはいけない。”ということを、今一度しっかり子どもたちに認識させることが大切だと思います。

※注①…お父さんが「ダメ」と言うことを、お母さんが「よい」と言ってしまっては子どもに正しい善悪の判断力がつきません。よく話し合い共通理解をして、子どもの前では常に同じ方向(方針)でしつけることが大切です。

※注②…大変言いにくいのですが、平気で赤信号を横断したり、列を無視して割り込んだり、他のお母さんや先生の悪口・陰口を言ったりする大人は、決して「正しい」「誰」にはなれないと思います。特に思春期を迎え、日々大人の言動に対してシビアな目で見ている子どもの前では厳禁です。         完                                                                 


15:26 | 投票する | 投票数(122)
2025/07/25

今一度「しつけ」について考える④(監督から)

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 今一度「しつけ」について考える④  監督 齊藤 秀樹

   それでは前回のお約束通り、専門家からの5つの助言(課題)について詳しく説明していきます。

  助言1…「子どもと話し合いをしてはいけない。」(親の方からは絶対に話しかけてはいけない。もし子どもから話しかけてきたら、相づちだけを打て。しかし決して意見を言ってはいけない。)
 助言2…「子どもに交換条件を出してはいけない。また、子どもからの条件も受け入れてはいけない。」
 助言3…「他人を巻き込んではいけない。」(どんなに悪い友人から娘が被害を受けても、決してその友人の保護者に抗議したり、会って相談したりしてはいけない。)
 助言4…「日常のあいさつだけは、親の方からきちんとしろ。」(それに対して、娘がしなくても叱ってはいけない。)
 助言5…「友人からの連絡があった時は、それがいかなる悪い友人からの、とんでみない誘いであっても、本人にその通り正確に伝えなければならない。」

 まずは、第1の助言「子どもと話し合いをしてはいけない。」についてですが、これは「非行」に走ってしまった子を持つ親というのは、口を開けばそれが全て“説教”になってしまうからです。子どもが思い通りにならない、どうしたらよいのかわからない、でもこの子を何とかしたい、という思いが強ければ強いほどそうなってしまいます。しかし、子どもは自分のやっていることが「悪いこと」「してはならないこと」だということは百も承知です。わかっていながらわざとやったり、やめられなかったりするのです。それならば、非行に関することでなければいいじゃないかと思うでしょうが、専門家はおそらく、この親はそれを区別するのが難しいと判断したのだと思います。つい他の話題から、その子の考え方や態度、行動への批判が始まり、それがお決まりの“説教”に発展し、ついには最もやってはいけない“否定”につながってしまうことを恐れたのだと思います。
 しかし、「一切話をするな。」では、子どもとの接点が全くなくなってしまいます。そこで「話しかけてきたら相づちを打て。」と、第4の助言の「日常のあいさつは親の方からしろ。」が出てきます。
 子どもにとって、説教じみたことは一切言わず、顔を合わせたらあいさつはきちんとしてくれて、話しかけたら愛情を持って相づちを打ってくれる親。なんていい親なのでしょう。

 まずは親子関係の一番の基本として“子どもを認め、温かく受け入れ見守れる親になれ”ということなのでしょう。これに関してはおそらく異論もあるでしょうが、この一家のように、いわゆる「支配的な親」(いつも口やかましくて、自分の考えを細部まで持ちすぎている親。子どもの主張を力で抑え込み、自分の型に押し込もうとするタイプの親。)にとっては、この助言はピッタリだと思います。

 次に第3の助言「他人を巻き込んではいけない。」と、第5の助言「いかなる友人からのいかなる内容であっても、本人に正確に伝えなければいけない。」についてですが、これは簡単に言うと“子どもの人格を認めろ”ということです。この本の中にも、悪い友人からの電話に対して、メモを取り、必死の思いで娘に伝える親の姿が度々出てきますが、たとえ「非行」に走ってしまった悪い子であっても、その子はその子なりに一人の人間として生きており、家の外での人間関係やつきあいを持っています。そのことは、一つの人格として認めてあげなければならないということなのでしょう。

 今回の専門家が出した最初の課題(助言)は、一言で言えば“子どもの人格を認め、一人前の人間として扱うこと。そして、子どもを温かく受け入れてあげること”が、まずは「しつけ」の第一歩(基礎基本)であるということです。
                                                                 つづく

07:17 | 投票する | 投票数(155)
2025/07/18

今一度「しつけ」について考える③(監督から)

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今一度「しつけ」について考える③ 監督 齊藤 秀樹

 今週から最も子育てが難しい「思春期のしつけ」について書いていきます。「思春期」とはおよそ10才~14才くらいに始まりますが、その出発点は“肉体の変化”です。胸がふくらんできたとか、ヒゲが生えてきたとか、夢精をしたとか…この現象が思春期の入り口です。この肉体の変化が「心」に大きな動揺や変化をもたらすことになります。

 この時期の子どもは、「自分とは何者か」という“自分探しの旅”(アイデンティティの確立)を始めます。自分はどんなものが得意でどんなものが苦手なのか。どんな個性や能力を持っているのか。今まで憧れていた夢や希望は本当に叶うのだろうか。今現在自分はどんな生活を送り、どんな人たちとの付き合いや関係を持っているのか…を手がかりに自分自身を理解していきます。そして自分の今まで生きてきた人生を振り返り、時にそれを否定し、自己を再構築していきます。その“自立のためのエネルギー”が、今まで素直に何でも言うことを聞いていた親への「不服従」や「反抗」という形で現れるのです。
 
  それでは私がよく先生方の生徒指導研修会や保護者対象の家庭教育学級等で例題として紹介する『積木くずし』という書籍の内容を中心に考えていきます。この本は今からかれこれ30年位前、中学生の「非行」が社会問題として世間を騒がせていた頃に出版され、300万部を超える大ベストセラーとなりました。この本は、ある有名俳優が非行に走った我が子を主人公に書かれたもので、その後テレビドラマ、映画、リバイバル版…が次々に出ましたので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

 では、なぜこの本がこんなにも当時の親たちを夢中にしたのでしょうか。それは親たちの中に「もしかしたら近い将来、家の子も…。ひよっとしたら明日にでも我が子が…。」という子育てへの不安が、とても他人事とは思えなかったからではないでしょうか。この本の中では、日に日に非行の度合いが激しくなる我が子と、その娘の一挙手一投足に戸惑い、悩み、オロオロするばかりの親の姿がしばしば出てきますが、これを読んでいくうちに、いつしか登場する親の姿と自分の姿を同一化し、「自分だったらこういう時にどうするか、どう扱えばいいのか、対処はできるのか…。」を一緒になって考え、探し、悩みながら読んでいったのでしょう。

    しかし、私がこの本の中で一番興味を惹かれたのは、実は親と娘との葛藤場面ではなく、親が娘のことで相談に行ったカウンセリングの専門家(警視庁の心理鑑定技師)からの助言と、この助言を必死に守ろうとする両親との闘いの場面でした。実はこの専門家からの助言というのは、両親にとっては「そんな馬鹿な。こんなことできるはずがない。」というものばかりだったのです。
 では、専門家からまずはじめに出された助言を紹介します。 

助言1…「子どもと話し合いをしてはいけない。」(親の方からは絶対に話しかけてはいけないけない。もし子どもから話しかけてきたら、相づちだけを打て。しかし決して意見を言ってはいけない。)

助言2…「子どもに交換条件を出してはいけない。また、子どもからの条件も受け入れてはいけない。」

助言3…「他人を巻き込んではいけない。」(どんなに悪い友人から娘が被害を受けても、決してその友人の保護者に抗議したり、会って相談したりしてはいけない。)

助言4…「日常のあいさつだけは、親の方からきちんとしろ。」(それに対して、娘がしなくても叱ってはいけない。)

助言5…「友人からの連絡があった時は、それがいかなる悪い友人からの、とんでもない誘いであっても、本人にその通り正確に伝えなければならない。」

   いかがですか。専門家がこの親に何を求めているのかわかりますか。次週はこの助言に込められた意味を詳しく説明していきます。                          つづく

08:16 | 投票する | 投票数(191)
2025/07/11

今一度「しつけ」について考える②(監督から)

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 今一度「しつけ」について考える②  監督 齊藤 秀樹

【「しつけ」とは】
  『しつけ』という言葉は、辞書によると「礼儀・作法を仕込むこと」(新明解国語辞典)また、「子どもが所属するそれぞれの集団にとって望ましい基本的な行動様式、習慣、価値、態度を教えならすこと」(学校カウンセリング辞典)とあります。
 「心の教育」の充実や重要性が叫ばれて久しいですが、「悪いことは悪いとしっかり教える。世の中には、人としてしてはいけないことがあることを理解させる。…。」という『しつけ』という問題について、そのポイントを今週から考えてみたいと思います。

【外側からのしつけ】  
    ペットを家で飼う場合、飼い主は部屋の一角に砂や新聞紙を入れた箱を置き、そこに用便ができるように「しつけ」ます。きちんとできたら餌などのご褒美を与え、できないと叱ったり、時には叩いたりしてできるまで練習させます。ペットをしつけるにはこのような方法が最も効果的で、手っ取り早くしつけることができるそうです。
  このように『しつけ』には、いやでも何でも無理矢理やらせることによって「慣らしてしまう」(できるようにさせてしまう)という方法があり、これを「外側からのしつけ」と言います。
    教師も保護者もそうですが、「この子を何とかしたい」「このままではまずい」という気持ちが強ければ強いほど、手段を選ばずにできるだけ短期間でよりよい成果を求めたくなります。例えば、家庭学習の一覧表を貼りだし、そこにシールを貼って背比べ競争をさせるとか、約束が守れなければ、グラウンドを走らせたり、残り掃除を命じるとか、百点を取ったら小遣いをあげる…の方法です。
 このように競争をさせたり、罰を与えたり、報酬を与えたりすることによって、できるようにしていくというやり方は、前述のペットを慣らすのと同じで、時にとても効果的なしつけ方法です。
    しかしこの方法には、大きな欠点があります。それは子どもは罰がいやで(報酬がほしくて)やっているわけですから、たとえ一時期その人の前ではできるようになっても、別の場所や違う人、環境によって、すぐに元に戻ってしまうことが多いようです。

【内側からのしつけ】
    人間の子どもを育てるというのは、ペットをしつけることとは少し違うのではないかと思います。そこで「内側からのしつけ」をお薦めします。「内側からのしつけ」というのは簡単に言えば「自分自身の判断基準で、自分からやろうとすること」です。このしつけ法には、次の3つのステップがあります。
①「理解」…何でそれをするのか。なぜしなければならないのかを理解していること。
②「方法」…それをどうやればよいのかを知り、やり方を身につけていること。
③「意欲」…自分から進んでやり続けようとすること。 
 例えば「食事の前には必ず手を洗う」ということをしつけたいなら、まずは①衛生面、健康面、マナー等から、その必要性を子どもが納得いくまでわからせます。次に②子どもを水道の前に連れて行き、石けんを使って何度も繰り返し洗わせ、正しい手の洗い方を身につけさせます。③後は、その子が自分からやる気になればよいのです。こう書くと実に簡単そうですが、これはけっこう根気がいる仕事です。「どうしてやらなければいけないの」(理解)と「どうやればいいの」(方法)はどちらかというと解決しやすいのですが、一番やっかいなのは「やる気がしない」「面倒だからやらない」(意欲)という問題です。どうしてやらなければならないのかはわかっているし、やり方も知っている、だけど面倒だからやらない?…。「ふざけるな!」と怒ってみても仕方ありません。
    子どものしつけの基本は、山本五十六の名言“やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は育たず”です。“やりもせず 教えもせずに ただやらせ 叱りとばせば 子はいじける”では子どもを正しくしつけることはできません。一つ一つのステップをしっかり確認し、長い目で子どもを見守ることが大切です。     つづく


07:32 | 投票する | 投票数(209)
2025/07/04

今一度「しつけ」について考える(監督から)

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今一度「しつけ」について考える  監督 齊藤 秀樹

 この問題について久しぶりに何回かのシリーズに分けて考えていきたいと思います。

 ある本にこんなことが書いてありました。社会人になった若者が、この先その道で一流になって活躍していくか、二流、三流のまま大して組織の役に立たない働きしかできないかを見るには、家でバーベキューパーティーを開催してみればよくわかるそうです。一流になる若者は実によく働くし気が利きます。肉の買い出しは率先してやるし、ロースやカルビは率先して自分で焼き、ビールも皆に注いでまわる。更に気を利かせてお土産にデザートまで持ってくる。席は譲り合うし、小さい子の面倒もよく見る。当然、後片付けの時もお皿を完璧に洗い、実に礼儀正しくお礼の挨拶をして家路についていくことができます。つまるところ、何かとしつけが行き届いており、自主的に周囲の役に立つことをすることができるのです。そんな彼らとは対照的に、真ん中の席にドカンと座り、何もせずに一番高級なカルビとハラミだけをバクバク食べているだけの若者もいます。一体この差はどこから生まれてくるのでしょう。

 私たちの職場である学校にも、近年、新採用の若い先生方が毎年のように入ってくるようになりましたが、その多くの先生方は皆、子どもの頃から成績優秀で、一流の高校を出て、国立大学や有名私立大学の教育学部を卒業して教師として赴任してくる人が多いです。しかしその先生がよい先生かどうかは、学歴や専門性ではなく、人間としての深みや幅の広さを持っているか、他者への配慮や誰に対しても敬意を持って丁寧に接するマナーが身についているかどうかで決まります。即ち「豊かな人間性」を持っているかどうかです。豊かな人間性を持っている若手職員に話を聞くと、その多くが幼少時に「時間や約束は守らなければいけない」「メリハリをつけてやるときはやる」「靴はきちんと揃えて脱ぐ」「宿題は嫌でもやらなければならない」「挨拶ができるのは基本」…当たり前のことを厳しくしっかり親からしつけられていたと言います。即ち大人になって組織のリーダーになったり、人の役に立つ人になるかどうかは、幼少期のしつけで決まるといっても過言ではないと思います。
 
 多くの親たちは、子どもに勉強させようとはしますが、直接的なしつけは疎かにしがちです。大切なことは、身の回りの整理整頓、時間や約束を守る…の、やらねばならないことはやりたくなくても我慢してやるという「自律心」を養うことです。
 また他人への接し方や配慮については、多くの場合、ホテルやレストランでの店員さんへの接し方、学校や塾や学童の先生への接し方など、親の「他人への接し方」の丁寧さや乱暴さがそのまま子どもに大きく影響します。「子どもは親の背を見て育つ」と言われますが、幼少期に親を見て学んだことは、大人になっても子どもの中に染みついているものです。
  そんな子どもの人間性を高める子育ての最大の障害が、幼少期の親による溺愛です。我が子かわいさにしつけが後回しになってしまうことです。小さい頃のしつけの悪さはそれほど気にならなくても、思春期を迎え中学生になる頃には相当目立つようになります。しかしそこから直そうとしてもなかなか直るものではありません。また自分の子どもは多少しつけがなっていなくてもかわいいのかもしれませんが、他人から見ればしつけがしっかりできているからこそ魅力的であり貴重な人材として認めてもらえるのです。

 自律心が欠けていたり、他人への接し方が失礼だったりすれば、社会に出てから苦労するのは子ども本人です。そのことを確認して「しつけ」シリーズの1回目を終了いたします。                                                                つづく

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2025/06/27

「運脳神経」とは(監督から)

Tweet ThisSend to Facebook | by:スタッフ
 「運脳神経」とは  監督 齊藤 秀樹
 今週はお馴染みのこの記事を久しぶりに紹介していこうと思います。
   私は「運動神経がない」から運動は苦手です。という話をよく聞きます。しかし「運動神経がない人」なんてこの世に誰一人いません。自転車は、小さい頃にがんばって練習して一度でもできるようになったら、その後は一生乗れます。
 しかし、子どもの頃に乗れるまでがんばらなかった人が、大人になって自転車の練習を初めても、乗れるようになるには子どもの何倍も努力が必要になります。運動神経がよいとか鈍いというのは生まれつきではなく、ある運動をできるまで練習したかどうか、つまり、できるようになるまでがんばったかどうかによって違ってきます。決して遺伝で決まっているわけではありません。
 
 日本人は右手で文字を書く人が多いのですが、それはいつも右手で書いているから上手になったのです。ケガなどをして右手が使えなくなってしまった人たちの中には、努力して左手で上手にかけるようになった人がたくさんいます。
 できるようになるまでの練習時間が長いか短いか、回数が多いか少ないかは個人差がありますが、できるようになるまで最後まであきらめないでがんばれば、誰でも必ずできるようになります。
  
 一般に「器用だ」「上手だ」と言われている人は、子どもの頃に身体を使ういろいろな遊びを体験して、様々な運動のパターン(感覚)を獲得している人です。そのパターン(感覚)は、小さなプログラムになって「脳」に格納されます。それが多ければ多いほど、手先が器用だったり、巧みに身体を動かしたりすることができるようになります。また、将来新しい動きや技に初めて出会った時も、以前に獲得したパターンを加工すればすぐにできるようになります。
  このように子どもの頃に遊びや運動を通してたくさんの動きを脳に格納しておくことが、将来運動ができる子を育てます。
 
 ところで皆さんは「運動ができる子は勉強がダメ」一方、「勉強ができる子は運動がダメ」というイメージを持っていませんか。確かにスポーツばかりに夢中になって全然勉強しない子は、成績がよいはずはありません。しかし、前述したとおり「運動」と「脳」は実は深い関係があるのです。「勉強はアタマで、運動はカラダで」とか、「うちの子は頭が筋肉だから…」なんて思っている人はけっこうたくさんいるものです。
 しかし、ものを覚えたり、考えたりするのも、身体を器用に、巧みに動かしたりするのも、全て「脳」がするものなのです。
 
 最近の研究では、“運動ができる子どもの方が、できない子どもより学力が高い”という結果が数多く発表されています。
 ではなぜ運動すると勉強もできるようになるのでしょうか。一つは、運動すると「脳が活性化される」ということです。これを日本女子体育大学の深代学長は「運脳神経」と呼んでいます。もう一つは、運動すると「活力」が育ちます。もう何度も書いていることですが、「活力」とは、自ら「わかるようになりたい。できるようになりたい。うまくなりたい。勝ちたい。」というエネルギーのことで、これがないと子どもは伸びません。一般には「やる気・意欲」と呼んでいるものです。
 SAAは、これからも毎回の練習や各種試合を通して、脳の活性化を図り、活力を高め、「かしこく、たくましい子」を育てていきたいと思います。

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