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目標に向かって努力すること(監督から)日誌12/12 07:47
子どもを輝かせるには(監督から)日誌12/05 07:32

          齊藤 秀樹  監督

 
 

監督から

日誌
1234
2025/12/12new

目標に向かって努力すること(監督から)

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目標に向かって努力すること  監督 齊藤 秀樹

    今年もまもなく終わりに近づいています。この紙面でお知らせした通り、全国大会に千葉県代表として出場した100mと男女混合リレーでは、全国2位(銀メダル)と全国3位(銅メダル)を獲得し輝かしい成績を収めることができました。たくさんの応援ありがとうございました。子どもたちはSAAの練習日以外にも平日特別練習を行ったり、バトンを自宅に持ち帰って自主練をしたりして精一杯の努力をしていました。だからこそ都道府県記録ランキングで28位だったチームが記録を2秒も縮めて3位入賞するという奇跡が起きたのです。そこで今週は久しぶりに、日本人で初めて米国野球殿堂入りを果たしたイチロー選手の考え方や生き方、努力について書いていきたいと思います。

【持続力】
    よくイチローを天才だという人がいますが、イチロー本人は「自分は天才ではないし、天才なんて言われたくない。」と言います。彼は小学校5年生の時から父親に連れられてバッティングセンターに毎日通い、40才代で引退するまで血のにじむような努力を積み重ねてきました。本人曰く「自分はバットを振るのは好きではないが、振り続けていないとヒットが打てなくなるので、今でも毎日振り続けている」そうです。そもそも天才というのは“努力しないですごいことができる人”のことで、イチローは長年誰よりもたくさんバットを振り続けてきた「努力の人」ということになります。彼を見ていると「質より量を稼ぐこと(たくさんやること)が大切」だということ。「努力は裏切らない」ということ。そして何より「一番うまい人が一番努力したら誰もかなわない」ということがよくわかります。

【モチベーション(やる気)】
    1つのことに熱中するためには「モチベーション」(やる気・活力)を高め、維持し続けることが大切だと言われています。一般的にモチベーションを高めるためには「外発的動機」と「内発的動機」の2つがあります。

 「外発的動機」というのは、①「金銭報酬」(その結果に見合っただけの金銭がもらえること)、②「地位」(実力や結果に見合った地位や役職がもらえること)、③「責任」(役立つ存在として頼られ、責任ある仕事を与えられること)等が考えられます。
 それに対して「内発的動機」というのは、簡単にいうと「自己実現を図る」ことで、目標に向かって努力し、それを達成させる喜びのことです。イチローのモチベーションの根底は、何といってもこの「自己実現」へのこだわりです。完璧なバッターになりたいという思いから、彼は常に最高の自分を追い求めてきました。9年連続200本安打という大リーグ記録を塗り替え、安打数世界記録を塗り替えた時でも、「もっと上手くなりたい」と日々思っていたそうです。

    ある研究によると、「モチベーション」と「目標設定」の間には相関関係があるそうで、簡単に達成できる低い目標や絶対に達成できそうもない高い目標を設定してしまうと、モチベーションは極端に落ちてしまいます。一番いいのは、もう少しがんばれば達成できそうな目標(60%達成可能)の時が、一番モチベーションが高くなるそうです。
 しかしイチローの場合は、達成可能な目標ではなく、遙かに届きそうもない高い目標設定することで、究極の自分を創り上げようとしていました。私たち一般人にはなかなかできないことですが、“一流になるということは、高い遠くの目標を持ち続けること”なのかもしれません。

 さて、我が子を将来一流のアスリートや芸術家にしたいと考えている方は多いのではないでしょうか。「努力の大切さ」「自己実現へのこだわり」「目標を持つこと」等のイチローの生き方や考え方は大切なヒントを与えてくれていると思います。


07:47 | 投票する | 投票数(15)
2025/12/05

子どもを輝かせるには(監督から)

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 子どもを輝かせるには    監督 齊藤 秀樹

    確か昨年の「監督から」でも書いたと思いますが、私の教育理念の基本でもありますので、今一度書いていきたいと思います。

 「子どもには無限の可能性がある」「子どもは誰でもよい芽を持っている」私は常々そう信じています。私たち指導者の仕事は、「子どもの中に秘められた無限の可能性を、発見し、引き出し、伸ばし、輝かせること」だと思っています。

    私は休日を使って、SAA(白井アスレチックアカデミー)を30年以上にわたって主宰してきました。その中で今までに総勢170名を越えるの子どもたちを千葉県大会で優勝させ、全国大会に出場させてきました。そこで今までの陸上指導者としての経験から、私が「子どもを伸ばし、輝かせる」ために常に大切にしていることを3つ紹介したいと思います。

【活力ある子どもを育てること】
 走ることが得意でも、苦手でも、適切な指導を受ければ誰でも必ず足は速くなります。そういう意味で私は教育の可能性を信じています。しかし、同じ指導を受けていても記録が飛躍的に伸びて、どんどん速くなっていく子もいれば、少しの向上で止まってしまう子もいるのは事実です。それはなぜでしょう。私は「活力」だと思っています。「活力」とは自分から「上手くなりたい。強くなりたい。できるようになりたい。勝ちたい。」という子ども自身が持っている「内面からのエネルギー」のことです。指導者がどんなに熱心に丁寧に上手に教えても、子ども自身に「活力」がないと決して子どもは伸びません。まず「活力ある子ども」を育てることが大切です。
 活力ある子を育てるには「やればできる」という体験をたくさん味わわせることです。「やった。できた。わかった。うまくなった。バンザイ。」という体験は、子どもに自信を与え、子どもを大きく変容、成長させる原動力となります。

【夢を目標に変えること】
    ノーベル賞受賞者で数学者の広中平祐氏はその著書の中で「自分で目標を決め、それに向かって努力するかしないかで、その結果に大きな違いが出る」と書いています。
 よく「夢」と「希望」と「目標」を同じだと考えている人がいますが、実はこの三者には微妙な違いと順番があります。まず「夢」(できたらいいな)を持つことです。そしてその「夢」に向かってがんばり続けることで、可能性が出てきます。可能性が出てくると「希望」(できるかもしれない)という明かりが差し込み始めます。ただこの「希望」は未だ弱い望みなので、これを強い望み=目標に変えていかなくてはいけません。この希望を「目標」(やればできる)に変えることができたときに、人はすごい力を出すことができます。私が指導しているSAAの子どもたちは、常に千葉県大会で優勝し、全国大会に出場して、日本一になることを目標にして練習に取り組み、大会に望む子どもたちです。目標がもし「県大会に出場して入賞すること」だったらこんなに長年勝ち続けることはできなかったと思います。目標が実現できたときの感動・感激体験は、一生忘れられない宝物になり、これからの人生の生きる自信につながります。

【素直な心を持つこと】 
    運動能力や技術は、一生懸命に練習を積み重ねていけばある程度は身につきます。しかし、伸びる子どもの一番の資質は実は「素直さ」だと思っています。素直で謙虚な気持ちで練習に臨める子は、多くの人から指導や助言をもらうことができます。またその指導や助言に対して、すぐにそれを吸収し自分のものにすることができます。素直さは子どもを向上、成長させるとても大切な資質だと思います。素直な心を持った子どもたちを育てたいです。

07:32 | 投票する | 投票数(38)
2025/11/28

「競争心」について③(監督から)

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 「競争心」について③  監督 齊藤 秀樹

 運動会は、大勢の友だちや大人達が見ている前で、ハッキリと勝敗や順位が決まる場です。だから勝てば喝采を受けてとてもいい気持ちになる反面、負けたときはとても悔しい気持ちになります。
 それを受けて、「たくさんの観衆の前で順位をつけるような競走は好ましくない。」「遅い子がかわいそうだ。」という一部の保護者からの反対論に押され、運動会で徒競走を中止する学校や、中には徒競走はみんなで手をつないで横一列でゴールするという学校まで出てきてしまいました。

 これは間違っていると思います。

 たかだか一年に一度の運動会のたった一つの種目にこれほど神経質になる必要があるのでしょうか。数多くの多様な個性や能力を持った子どもたちが集まり生活する、それが学校というところです。ですから「みんな違ってみんないい」し、「人との違いを認め、個性を尊重し合える心の強さや大きさを持ってほしい」と思っています。「ひいきだ。」という言葉を気にした“形式的平等”は、子どもたちから「自分なりに精一杯がんばる」という“活力”を減退させます。
 
 日常の学校生活では控え目でおとなしく目立たない子でも、「かけっこ」だけは得意で、自分の唯一の特技だという子が、一年に一度晴れがましくゴールテープを切り、輝いたっていいじゃないですか。「ずるいな。あいつばかり目立って。むかつく。」なんて思う子は、あまりに心が狭く貧しすぎます。私は素直に「すごいね。さすがだね。おめでとう。よーし、ぼくは得意の漢字でがんばるぞ。」という子を育てたいのです。
 
 走るのが苦手で徒競走がビリだって、歌が抜群に上手い子や、計算が速い子、友達を作るのが上手な子、身体が丈夫で一日も学校を休まない子はたくさんいます。子どもたちには誰にでも、これだけは人に負けないというものが必ずあるはずです。
 この世の中に競争のない世界なんてありません。子どもの頃に競争することから遠ざけられた子どもたちが、社会に出て行ったとき、現実の世界に対応することができず辛い思いをするのは本人です。
 
 自分の得意不得意を事実として認め、自分探しをしながら自分に一番合った職業を選択し、競争社会をたくましく生き抜いていくための力を、子どもの頃から身につけていくことはとても大切なことだと思います。
  
 「競争」では負けた悔しさと勝った喜びを味わうことができます。私は負けた悔しさがあるからこそ、勝った喜びがあると思っています。そしてこの体験は、跳び上がってバンザイしたくなるほどの感動・感激体験として心と体の中に刻み込まれます
 同時に、自分と他人との違いを受け入れ、認め、尊重する豊かな心を育てます。
 
 私たちの仕事は一人ひとり違う個性や能力を持った子どもたちを、あらゆる場面で、一人でも多く輝かせることだと思っています。
 競争心は、優劣がつくという厳しい現実の中で、勝利という目標に向かって、少しでも自分を成長させるために、自分の持っている無限の可能性を引き出し、伸ばすために「必要」だと思います。
 ただし、その使い方や活かし方をよく考えて使うのは、私たち大人の役割です。
                                    完


07:21 | 投票する | 投票数(75)
2025/11/21

「競争心」について②(監督から)

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 「競争心」について②  監督 齊藤 秀樹

    先週は競争心を「ただ勝てばよい」というマイナス面ではなく、「勝つために最大限の努力をする」というプラス面で考えていく必要がある。というところまで書きました。今回は「子どもをダメにしてしまう競争心の使い方」(マイナス面)について考えてみたいと思います。
 
 親なら誰しも我が子をよい子に育てたい。何としてもがんばってほしいと願い、大きな期待をかけていることと思います。これは当然のことだと思うし、なくては困ります。 しかし実際には、なかなか親の思い通りにはいかないことも事実です。そこで親として様々な働きかけを子どもにしますが、その1つとして「競争心をあおる」という方法があります。しかし実はここに、大きな落とし穴が潜んでいる場合があります。今回は実際に私が担任時代に出逢った事例から考えてみたいと思います。

事例①
   マラソン大会が間近に迫ったある日のこと、S君が私の机の前にやってきて「先生、今度のマラソン大会で10位以内になったら、お父さんが自転車を買ってくれるって。僕がんばるから。」とうれしそうに話しかけてきました。私も「よかったな。がんばれよ。」と励ましました。いよいよマラソン大会当日、私は各学年の子どもたちと一緒に走っていましたので、結果については全く知らずに、大会後の後片付けをしていました。そこへS君と仲の良いT君が困った顔でやってきて、私にこう訴えました。「先生どうしよう。S君が順位カードを取り替えてくれってしつこく言ってくるんだ。一生のお願いだから。一番の親友だろって…。」実はS君が11番でT君が10番だったのです。
 
 実はこういう話は珍しいことではありません。「成績が上がったら小遣いを増やしてくれる。」「100点取ったら、100円くれる。」「優勝したら携帯電話を買ってあげる。」何としてもがんばってほしいと望む親の働きかけが、「物」や「金」でやる気を出させ、競争心をあおるという形になってしまった結果、子どもは不正だとわかっていても無理をしようとします。そして、これが繰り返されると、報酬なしには努力をしない“打算的でずるがしこい子”になってしまう恐れがあります。

事例② 
    十数年前の家庭訪問での出来事です。玄関に入るとご両親がそろって出迎えてくれましたが、何とその第一声が「先生、うちの子いい子でしょう。私たち夫婦の自慢の子どもなんです。」でした。
 その子は確かに性格も穏やかで、友人にも優しく、勉強も出来る子どもでした。でもなぜか伸び伸びとした子どもらしさがない子だなと思っていました。そんなある日、私は信じられない光景を目撃してしまったのです。朝早く誰も登校していない教室で、その子が今日実施する予定のワークテストの解答を、私の戸棚から盗み見しているところを…。放課後その子を呼んで、なぜそんなことをしてしまったのかをよくよく聞いてみると、涙ながらに「どうしても百点を取って、お父さんとお母さんにほめられたかった。」「両親の喜ぶ顔を見て、あなたは本当にいい子ね。」と言われたかったそうです。「先生うちの子いい子でしょう。私たちの自慢の宝物なんです。」と言われ続けてきた結果がこれです。その子は残念ながらその後も、冬休みの書き初めの宿題に、私が全員に書いて配った手本を、明らかに下に敷いて写し書きにした作品を持ってきたことがありました。理由は前と同じ、良い賞を取ってほめられたかったからだそうです。ダメだと言われ続ける子もかわいそうですが、良い子と思われ続けるのも辛いものです。親の勝手な世間体や見栄で、常にプレッシャーを受けて、よい子を演じてダメになっていく子というのも少なくありません。

 目先のことだけを考え、あせって結果を出そうと「誤った競争心の使い方」をすると、後で取り返しのつかないことになります。競争心は必要だと思います。しかしその使い方によっては善にも悪にもなる可能性があることを心に置いて、広く長い目で、今子どもに何を培うことが必要なのかを考えることが大切だと思います。    

                                  つづく

06:49 | 投票する | 投票数(105)
2025/11/14

「競争心」について(監督から)

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   「競争心」について   監督 齊藤 秀樹
   ここ近年全国のあちこちから「運動会がつまらなくなった。」という声をよく聞きます。これは何も、運動会という行事を、教師の負担が大きく、授業時数も不足しがちなので、できるだけ練習時間を少なくして、春先や平日に質素に実施してしまおう、親の弁当づくりの負担をなくすために半日行事にしようという学校が増えてきたからということだけではなく、いつの頃からか「子どもに勝敗や順番をつけるような競争(競走)はしない方がよい。」という風潮が広がってきてしまったからです。
 
 特にそのやり玉に真っ先に挙がったのが徒競走で、「たくさんの観衆の前で、速い遅いを見せる必要はないのではないか。」「遅い子がかわいそうだ。」という一部の保護者からの猛烈な反対論がきっかけだったようです。その結果、運動会から徒競走をなくした学校、さらに、全員で手をつないでゴールする学校まで出てきました。皆さんはこれをどう思いますか。

 久しぶりに今回から数週にわたって「競争心は必要か」というテーマで書いていきたいと思います。おそらくこのテーマは、保護者の中でも意見が二分する(「競争心がなければ子どもは成長しない」対「競争心をあおることは子どもにとってマイナスである」)議論になると思います。ですから、私の考えに対する各家庭からの賛否両論はどんどんお寄せください。できるだけこの紙面で紹介し、共に考えていけたらと思っています。

 「競い争う」という考えは、人間が持っている本能として、誰もが昔から身につけている資質ですが、現在の日本における「競争社会」の始まりは、おそらく明治時代の福沢諭吉に代表される「能力主義」あたりではないかと考えられます。有名な“人は生まれながらにして身分や地位は平等であり、能力さえあれば、努力さえすれば、誰もがそれに見合った地位で活躍し、豊かな生活が送れる”という能力主義の考え方です。
 
 この考え方こそ、明治以降、欧米に追いつき追い越そうと、全力をあげてがんばってきた日本人の基本理念であり、途中「戦争」という苦難を乗り越えながらも、今の日本の国際的な地位や発展につながっています。しかしこのことが、ひたすら金儲けのためだけに働き、自分の国さえ良ければ、自分の会社さえ良ければいいという生産競争意識を生み、結果として海外からの非難を生み、目の敵にされることもありました。また国内でも、出世競争や受験戦争を生み、競争率の高い有名校へ合格し進学することが、その個人としての有能な証とされ、ただ他人に勝つことが、相手を蹴落とすことが…という個人主義的意識に向かいすぎてしまいました。
 
 こう書いていくと、やはり「競争はよくない」という結論になってしまいそうですが、反面、資源のない国、他国から遠い小さな島国、戦争で負けた国である日本に、競争心がなくなってしまったら、これ以上の発展や安定は望めないだろうし、立身出世という夢があるから、受験という壁があるからこそ、皆、日夜がんばって努力しているんだという事実も否定できません。
 
 即ち、「競争」というものを、「ただ相手に勝てばよい。」というマイナス面から見るのではなく、勝つために「精一杯の努力をする」というプラス面で考えていくことが必要なのではないかと思います。                  つづく


14:32 | 投票する | 投票数(137)
2025/11/07

子どもを「一流」にそだてる③(監督から)

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子どもを「一流」に育てる③       監督 齊藤 秀樹

 先週は、自分の意志で決めたことは最後までやり抜くことができる。そしてこのことは「自分で決断したことは、最後は自分で責任を取る」という①「自己理解」(自分を知る)、②「自己判断・自己決定」(自分で考え、自分の意志で決める)、③「自己責任」(自分で決めたことは自分の責任)という生きる力につながります。そして、こういう体験が何事も最後までやりとげる力の礎になるということを書きました。

【親は子どもの応援団であれ】
 さて、オリンピックや世界大会でよく見る光景ですが、多くのメダリストたちが試合後のインタビューで「ここまでこれたのは両親のおかげです」と言い、もう亡くなってしまった親には、遺影を抱きながら「一緒に戦って助けてくれたんだと思います。」「天国から誰よりも喜んでくれていると思います。」というコメントを残しています。
  子どもという原石をダイヤに磨き上げるのに最も大切なことは、子どもが強い興味を示し、やりたいと決めた対象があれば、それを追求し極めるまで親は徹底的に応援することです。親の応援は子どもの強いモチベーションにつながり、物事を継続しやりとげる力を育てます。

 子どもの才能を開花させるには、親の存在抜きで語ることはできません。世界的なヴァイオリニストのチョン・キョンファさんは、母親が必死に食堂を経営しながら子どもを留学させ、その才能を開花させました。盲目のピアニスト辻井伸行さんのお母さんは、音楽の素人でしたが、おもちゃのピアノを弾く息子の絶対音感に才能を見い出し、電話帳でピアノの先生を捜すことから始めて今の彼を創り上げました。2人とも自分の専門分野ではない才能を見い出し、執念に近い惜しまぬ応援を続けたことで、原石を磨き、その才能を天職につなげた親たちです。おそらく親の応援がなかったら原石は眠ったままだったと思います。

【子どもには「一生懸命さ」と「真剣さ」を求めよ】                         
 子どもの挑戦を惜しみなく応援することの大切さを書いてきましたが、子どものために時間、労力、金銭、環境面で最大限のサポートをするからには、親に「発言権」も「見守る義務」もあります。子どもには「一生懸命、真剣に挑戦する姿勢」を求めなくてはいけません。私の経験から言えば、本当に勉強のできる子は、部活動や習い事をするときも熱心なものです。何に対しても一生懸命だから何をしても優秀なのか、優秀だから何をしても真剣に取り組めるのかはわかりませんが、いずれにしても鍵は「真剣さ」です。一流のアスリートやアーティスト、社会でリーダーとして活躍している人の多くは、小さい頃から親に「一生懸命取り組んでいるときは惜しみなく応援してもらい、一生懸命でないときはこっぴどく叱られた」という育てられ方をした人が多いようです。

 小さいことと見過ごされがちですが、子ども時代の部活や習い事の怠け癖は、その後の人生全般に悪影響を及ぼします。子どもの頃に「怠けてもいい」「人より優れていなくて当たり前」という負け癖を持つか、「少しでも上を目指し、常に向上心を持って努力する」という習慣を持つかは、一生を左右すると思います。私の教え子たちの人生を見ても、「何事も一生懸命打ち込む習慣」を持っている子は、年齢を重ねても、仕事やライフワーク、趣味にその才能を発揮し続け、うらやましいような人生を歩んでいる子が多いです。子ども時代に部活などに一生懸命取り組む経験はとても重要です。向上心や集中力を養い、よき友やライバルと出会い、何よりも本人が主体的に意欲的に人生を歩む上で基礎となる姿勢や習慣を形成できるからです。「一生懸命なときは惜しみなく応援し、怠けたときは厳しく叱る」という教育は「真剣さ」を育てる重要な役割を果たします。

【失敗は叱らずに、次への教訓と考えさせよ】
 様々なことに自分から挑戦する子は、それだけ失敗も多くなるものです。しかし子どもの失敗に対して感情的に激怒してはいけません。子どもは萎縮し、失敗がバレないように隠すことに腐心するようになります。失敗しても叱られず、その原因を自分で考え、そこから何を学ぶかに視点を置いた育てられ方をした子は、「失敗を教訓とし、それを乗り越え、あきらめずに最後までやりとげる力」を身に付けます。


07:06 | 投票する | 投票数(168)
2025/10/31

子どもを「一流」に育てる②(監督から)

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子どもを「一流」に育てる②     監督 齊藤 秀樹
 先週は「下手な鉄砲は、いくら撃っても当たらない。」子どもが「活力」(強いやる気や高いモチベーション)を持って頑張り続けるためには、自分から挑戦しようとする力が原点になる。即ち子ども自身を「言い出しっぺ」にすることが重要だということを書きました。
 実は今、こんな偉そうなことを書いている私ですが、自身の子育てはどうだったかというと、特に上の長女の時には、本人の関心や希望はお構いなしに、私が一方的に2つも3つも習い事に通わせていた一時期があります。その結果、本人にいつも「やらされている感」がつきまとい、受け身でなかなか自主性や向上心の芽は出ませんでした。
 今思うと、とても恥ずかしいことですが、そんな自分の失敗や反省も含めてこのシリーズを書いています。

その2…【自分で決めたことは、自分の責任】
 そんな彼女が明らかに変わったのが中学校に入って部活動を選んだ時からです。ある日突然「お父さん、私ハンドボール部に入りたい。」と言い出しました。私としては小学校時代からやらせていた陸上やテニスの方が適性があると思っていたのですが、本人が自分で判断し、決めたことなので、きっと最後までやり抜くことができるだろうと信じ賛成することにしました。結果的には予想通り、県大会や関東大会に出場して、優勝するというすばらしい実績と思い出を残すことができました。当時娘の入っていたハンドボール部はとても厳しい部活動で、正月早々に合宿があったり、山梨県まで遠征試合に行くといって、早朝4時に学校集合なんてこともしょっちゅうありました。しかし不思議なことに、その間ただの一度も「つらい」とか「辞めたい」という弱音やあきらめを口にしたことはありませんでした。
 やはり、自分の意志で決めたことは最後までやり抜くことができるのです。そして「自分で決断したことは、最後は自分の責任」という大切なことを学ぶことができました。

その3…【途中で簡単にやめさせない】                         
 実はこのハンドボール部の経験の前に、もう一つその前提となる忘れられない出来事があります。それは小学生の時に、本人が「水泳を習いたいので、スイミングクラブへ行きたい」と言った時の話です。私自身も大学まで水泳を続けてきたので、その申し出に大賛成し入会させることにしました。当時そのスイミングクラブには10級から1級までのクラスがあり、月一回の試験で合格すると次の級に進めます。我が子も順調に上手くなり、級もどんどん進んでいきました。そんなある日「もうスイミングを辞めたい」という申し出が本人からありました。話を聞くと何でも2級までは何とか行ったが、どうしても1級に合格できず、もう4回も試験に落ちていると言います。毎週辛そうにバスに乗り組む姿を見るにつけ、かわいそうだから辞めさせてあげようかと正直悩みましたが、私の教育者としての数多くの経験から「途中であきらめずに最後までやり抜く力」というのは、子どもの可能性を引き出し、伸ばし、輝かせるためには決定的に重要な要素だと考えていましたから、1級に合格するまでというゴールを設定し、途中で辞めることを許しませんでした。同時に「自分からやりたいと言い出したことを、途中であきらめるような癖をつけると、全て中途半端な人間になってしまう。自分で決めたことは最後までやり抜きなさい。」と言って続けさせました。
 苦労の末、ようやく努力の甲斐あって、1級に合格した時の写真(満足そうに満面の笑みで賞状を持って写っている写真)は今でも大切に家の壁に飾ってあります。

その4…【最後までやりとげる】
  多くの習い事には通ってはいるが、辞めるのは自由で、いろんな習い事を取っ替え引っ替えやっている子どもをよく見かけます。これでは何一つものにせず中途半端に終わってしまいます。もちろん、中にはすぐに辞めた方が本人の適性のあることに集中できる場合もあるので、一概に一般化できない話ではありますが、「石の上にも3年」「継続は力なり」という諺はダテではありません。「途中で簡単に投げ出さない習慣」を身につけ、小中学生の時代に「初志貫徹」することの経験は、人生を通じて何事も最後までやりとげる力の基礎になると思います。                             つづく


06:22 | 投票する | 投票数(193)
2025/10/24

子どもを「一流」に育てる(監督から)

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子どもを「一流」に育てる①      監督 齊藤 秀樹
 夏から秋にかけては様々なスポーツのイベントが行われ、連日テレビや新聞、インターネット等でその様子が大きく取り上げられていました。先日東京で行われた世界陸上では、惜しくもメダルを逃した村竹ラシット選手の試合後インタビューでの「何が足りなかったのだろう。何が間違っていたのだろう。全力でやれる限りのことはやってきたのに悔しい。」と号泣する姿に日本中が感動の涙を流しました。今更ながら全国・国際レベルの大会の持つ魅力とその影響力、そしてチームや国家を強く結びつけ、感動を共有できるスポーツのすばらしさを強く感じました。来週末行われる全国小学生陸上交流大会には、千葉県選手団の半数である7名の代表を送り込んでいるSAAっ子がどんな活躍を見せてくれるか、どんなドラマが待っているのか今からとても楽しみです。
 さて私は、オリンピックや国際大会等で活躍した選手の生い立ちや環境と、それを支えた親の「子育て法」には、ある共通点があることを発見しました。そこで今週から子どもを「一流」に育てるには、どんな教育理念や方針が必要なのかについて、私の教え子たちの話も取り入れながらシリーズで考えていきたいと思います。  

その1【やりたいことは自分で決めさせる】
 「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」という諺がありますが、子どもたちの中には、ピアノ、習字、サッカー、ダンス、公文、学習塾、そろばん、英語…とたくさんの習い事をやり、毎日忙しく過ごしている子がいます。しかし、親から無理矢理押しつけられた習い事は長続きしません。まあ親としては将来子どもが困らないようにいろいろなことができる子どもになってほしいという願いがあり、時に自分がやりたくてもやらせてもらえなかった経験から、自分の夢を子どもに託したい気持ちを持つ方もいるでしょう。
 しかし「無理矢理やらされている」と思っているうちは、何をやっても子どもは主体的に真剣には取り組みません。いつも言っていることですが、子どもが成長するために最も必要な資質は「活力」(自分から「知りたい」「わかりたい」「できるようになりたい」「勝ちたい」という内面からのエネルギー)です。たどり着きたくもないゴールに向かって全力で頑張れる子はいません。

 そうは言っても、小学校低学年の子どもは、親ほどの情報量をまだ持っていません。自分の中に眠っている無限の可能性(自分にとって何が得意で、自分は何が好きで、何が苦手なのか)が十分理解できていません。そこで親は子どもの性格や能力、教育環境(習い事の先生の質や教育方針)などの情報を収集し、積極的に子どもに提示し、選択肢をいろいろと示してあげることが大切です。しかし重要なのはその選択肢の中から最終的に決断するのは子ども自身だということです。自分で決断し、目標を持ったときの子どもの頑張りは親の予想を遥かに超えます。「下手な鉄砲は、いくら撃っても当たりません」、子どもは自分が「言いだしっペ」になってこそがんばれると思います。  

 私の教え子の中に、大きな病院の2代目を次ぐ運命の子どもがいました。母親は強烈な教育ママで、大学は医学部以外は行かせないという厳しい方針で育てられました。ところがどこでどううまくいかなかったのかわかりませんが、彼は高校受験で第一志望校から第三志望校まで全て失敗し、次の大学受験は医学部に三浪までして挑戦しましたが、結局合格できませんでした。その後、彼はすっかり人生の目標を見失い、今はどこで何をしているのか私も友人たちも誰も知りません。利発で素直で努力家だった彼はクラスの人気者でした。そんな彼をあのようにしたのは、本人の意志や選択を全く無視し、進路や人生設計を強制的に押しつけた親のせいだと、当時もっぱらの評判になりました。

    オリンピックや世界大会で活躍した先週の中には、幼少時から親の方針で体操や卓球をやっていた例があります。しかし練習を重ねていく中で、間違いなくその競技が好きになり、自分の特技となり、自分はこの道で行くという強い意志を持って努力し続けたからこそ輝けたのだと思います。きっかけは親でも自分の判断と活力がなければ決して一流にはなれないと思います。         つづく
          引用、参照「一流の育て方」ムーギーキム著      

07:08 | 投票する | 投票数(216)
2025/10/17

「成績」について考える(監督から)

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 「成績」について考える     監督 齊藤 秀樹

 各学校では前期が終了し、修了式の後「通知表」が配られられたことと思います。そこで今回はお馴染みのこの記事を紹介したいと思います、

 皆さんは、俗に「天才」と呼ばれている偉人たちの、子ども時代の学業成績を集めた「天才の通信簿」(プラウゼ著)という本をご存じでしょうか。この本を読むと「いったい学校時代の成績って何だったんだろう?」と考えさせられます。カントやヘーゲルといった人たちは、学校(子ども)時代から“神童”と呼ばれ天才の名をほしいままにしてきた人ですが、反対に学校時代は“落ちこぼれ”と言われ心配されていた人が、いつしか天才に化けたという例もたくさんあります。

   プラウゼによれば、エジソン、リンカーン、ノーベル、ルソーなどはその典型だそうです。その理由としては大きく2つが考えられます。1つ目は、あまりにスケールが大きすぎて、学校という規格に当てはまらず、教師もその才能を見抜けなかったこと。2つ目は、これらの人に共通することですが、自分の好きなこと(興味あること)にしか関心を示さず、得意・不得意があまりにもはっきりしすぎていたため、多くの学校が目指す「知・徳・体」のバランスのとれた優等生にはなれなかったことです。どちらにしても、日本にも「二十歳過ぎればただの人」ということわざがあるとおり、学生時代の成績が必ずしも将来とは関連しないというよい例だと思います。

    こういうことを書くと必ず「監督、それは違うんじゃないですか。今の時代は…」という反論が必ず起こります。こういう人たちは、おそらくみんな共通して“学歴”(良い成績を取ることがその子の優秀さの証であり、上級学校への進学を可能にする)という重みが、他の要素や可能性、これからの変容や成長というものを圧倒して、大きく意識の中にあるのでしょう。そして、あたかも成績の善し悪しがその子の“格付け”になり、良い成績を取れば未来は開かれるが、悪ければ全てが閉ざされてしまうがごとく考えてしまっているのかもしれません。

  さて、先日学校から渡された通知表ですが、ここに記載されている「A」「B」「C」は、そのままその子の人間としての実体や価値ではありませんし、もちろん格付けでもありません。教科の方は、前期の間(4月~9月)にどれだけの学習内容が目標に到達したかを示しています(到達度評価)。一昔前の評価は相対評価といって、クラスの中での位置(上中下)を示していましたが、現在の評価は、先生が決めた基準(例えば、90%以上がA、60%以上がB、それ以下がCというように)がどこまで到達したか(理解できたか。身についたか。)を評価しますので、学習の定着度はわかりますが、クラス内での位置や順位を図るものではありません。
 また、行動面の評価はこの到達度評価に加えて個人内評価も加味されていますので、他人と比べてではなく、その子個人としての長所や成長、努力した項目に「○」がついています。

 さて今回、私が各家庭にお願いしたいのは、苦手な算数の思考力を叱るより、得意な体育のボールゲームでの活躍を認めてあげてほしい、うるさくて調子に乗りやすい性格を叱らずに、常に明るく前向きな面を褒めてほしいということです。子どもは日々変わり成長していくものですから、一番大切なのは「過去」ではなく「未来」です。どうぞ、せっかくの楽しい後期の前に、子どもがやる気をなくし自信喪失状態になるようなことは、言いたくても腹の中でぐっとこらえ、「よくがんばった。後期もまた新しいことに挑戦してがんばろう。」という温かい励ましをお願いします。 
 どうぞ、家族水入らずで充実した実りの秋をお過ごしください。           完


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2025/10/10

「厳しさ」と「やさしさ」(監督から)

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 「厳しさ」と「やさしさ」  監督 齊藤 秀樹

 私はよく先生方に、星の王子様の冒頭文にある“大人は、誰も、昔は子どもだった”を引用して、子どもを教育するときは、「自分が子どもだったら…」という“子どもから見た目(視点)を忘れない”ことが大切なポイントだよ。という話をします。
 そこで、今回は私が教師という職業をめざす原点となった小学校時代に出会った2人の先生と教師になってから出会った1人のプロ教師について書いてみたいと思います。 
 
    私が1年生の時の担任の先生はA先生という55才くらいの女性ベテラン教師でした。優しさの中に厳しさもある大好きな先生でした。冬のある日、その日は大雪の降るとても寒い日でした。私はジャンバーの上にビニールのコートを着て学校へ行きました。帰りの会が終わり、みんなで昇降口まで行って帰り支度をはじめました。私は寒さで手がかじかんで上手くビニールコートのホックがはまらず困っていました。そこで先生に「先生ホックはめて。」と甘えた声で頼みました。すると先生は「ヒデキ君、あなたは自分で出来ます。」と一言言って、他の子の面倒を見に行ってしまいました。私はその一言が悲しく、泣きながらホックをはめて走って帰りました。このことがあってから私は先生が嫌いになりました。なんて不親切で冷たい先生なんだろうと思いました。しかしその時以来、私はあまり人を頼らなくなり、自分のことは自分でやるようになりました。今思うと、実は先生ほど私を理解してくれていた人はいなかったのかもしれません。「君には出来ます。」の一言で私は泣きながらも自分でホックをはめられたのです。先生はきっと私を、人に助けを求めず自分の力で解決できる自立した子に育てたかったのでしょう。
 “厳しさは決して不親切ではない”と思います。小学校1年生で出会ったA先生には、どんなにやさしくしてくれた先生より今は感謝しています。

 私が小学校4年生の時の話です。暴れん坊で悪ガキだった私は、休み時間になると決まって教室の後ろで友だちとプロレスごっこをして遊んでいました。その日はいつになくだんだんエスカレートしてきて、跳び蹴りのまねをした時、ベランダに出る後ろのガラスドアを割ってしまいました。「ガチャーン」というものすごい音を立ててガラスが割れ、教室の中が大騒ぎになりました。その音を廊下で聞きつけた担任のI先生(30歳代の男性教師)が、血相を変えてすごい勢いで教室に駆け込んできました。私はまずい怒られると思い、心の中で(コラー、何をしているんだ。またお前か。だからいつも…。)と怒鳴られ叱られる準備をして、体を硬く丸め下を向いていました。ところが先生の第一声は「ヒデキ。大丈夫か。ケガはないか。よかった。」でした。私は何が何だか訳がわからずにボーッと先生の顔を見ていましたが、知らぬ間に涙があふれオンオンと泣いてしまいました。悪戯したことや、物を壊したことなんかより、子どものケガを心配し、一人ひとりをいつも大切にしてくれる、I先生はいつもそんなやさしい先生でした。

 私が教員になって2年目にすばらしい学級経営をすると評判の2年生の学年主任の先生の授業を、若手教師数名で見せてもらっていた時の話です。確か算数の授業だったと思いますが、実に分かりやすい説明で、子どもたちも学ぶ意欲にあふれたすばらしい授業でした。授業が始まって20分くらいたったころでしょうか、先生が突然「みんな姿勢を正して、目をつむりなさい。」と言いました。私は何が始まるのだろうとじっと先生の様子を見ていましたが、先生はみんながしっかり目をつむって静かになったのをみると、一人の女の子の所へ行き、その子をそっと抱き上げて私の方に歩いてきました。そして「気づかれないように雑巾でふいておいてください。」とだけ言い残し、教室を出て行きました。私は言われたとおりに雑巾を持ってその子の席に行くと、何とおしっこを漏らしてしまっていたのです。全く気づきませんでしたがそっと拭き取りました。クラスの子は先生に言われたとおりじっと目をつむっています。しばらくして先生はその子と教室に戻ってきて、前と同じように授業が始まりました。数人の子が不思議そうな顔をしていましたが、誰一人としてお漏らしには気づかなかったようです。私はまるで魔法でも見ているような気がしてあっけにとられていました。同時に子どもの心を傷つけないよう細心の気配りをして、子どもたち一人ひとりを大切に育てている先生の姿に感動したのを覚えています。

 教育(子育て)とは、いかに子どもを理解し、大切にできるか、そして子どものためにどこまで関われるかを追求していく営みであると思います。


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