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「父親」と「母親」の役割(監督から)日誌11/25 07:49

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第7回 Long Distance Run日誌11/23 16:37

          齊藤 秀樹  監督

 
 

監督から

日誌
1234
2022/11/25new

「父親」と「母親」の役割(監督から)

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「父親」と「母親」の役割    監督 齊藤 秀樹

 私の両親は共に東京都で小学校の教員をしていました。父親は山梨県、母親は徳島県出身で、職を求めて都会へ出てきました。2人ともいつも忙しく、私と妹は近所の方に幼児の時から預けられ、学校もそこから毎日通っていました。
 当時は生活していくのがやっとで、今の子どもたちのように家族で温泉旅行に行ったことも、遊園地に連れて行ってもらったことも、おいしい名店で外食したという記憶もありません。ただ唯一、年に2度山梨の実家に帰省し、祖父の作った干し柿と、祖母の作った水飴を食べるのが何よりの楽しみでした。でも、他人をうらやましいと思ったことも、自分が不幸だと思ったことも一度もありませんでした。忙しくお金もない家庭でしたが、両親はいつも私を理解し、精一杯の愛情を注いでくれていました。

   さて、私は小学校6年生の時に、学校の部活動でサッカーの練習に毎朝通っていました。両親は「子どもが好きでやっていることだから」ということで喜んで送り出してくれていました。そんなある日のこと、私はその日に限ってサッカーの練習に行きたくなくなり、布団をかぶってゴロゴロしていました。すると隣の部屋から父親の「あいつは何をしているんだ。自分からやりたいと行ってやり出したことを、途中であきらめるような奴はダメだ。」という野太い声が聞こえてきました。私は「まずい。」と思い、自分が父親にたたき起こされる姿を想像しながら布団の中で小さく身を潜めていました。
 すると母親が「そっとしておきましょうよ。あの子が起きてこないくらいだから、きっと何か考えがあるのでしょう。」といういつになく強い口調の声が聞こえてきました。それからしばらくの間父親と母親が話していましたが、結局私が起こされることはありませんでした。

 その一部始終を布団の中で聞いていた私は、自分のしたことを深く反省しました。と同時に何ともいえない嬉しさを感じました。それは「私は信じられている」という嬉しさでした。本当はサッカーに行きたくない理由など何もなかったのに、ただ何となく行く気がしなかっただけだったのに、母親は「あの子はそんな子ではない」と私を信じてくれました。一方父親はおそらく私の心の中にある甘さ(さぼり癖)を見抜き、許せない気持ちになったのでしょう。

    このように私は、常に厳しい父親と、やさしい母親という異質の2人によって育てられました。ある本によると、本来父親は「切る」存在で、母親は「包む」存在であると書いてありました。例えば、我が子が非行に走り問題を起こした時に、たとえ我が子であっても悪いことをしたのは事実だから許さないと、子どもを「切る」のが父親で、悪いことをしたのは確かだが、我が子なんだから何とか救いたい、助けたいと「包む」のが母親だといいます。人によっては「ひっぱる」のが父親で、「なだめる」のが母親だという人もいます。

    一昔前の父親は怖くて威厳のある存在でした。子どもが何か曲がったことをすれば、父親から毅然とした態度で叱られました。時にはゲンコツが飛んでくることもありました。人の道に背くことをしたとき、人様に迷惑をかけたときには、こっぴどく叱られたものです。また父親は一家の大事な決定のキーパーソンでもありました。進学や就職、あるいは一人暮らしや結婚などの人生の選択においては、父親に納得してもらうのが一つの難関でした。それほど父親は一家の大黒柱として君臨していました。

   しかし最近この図式が変わってきているような気がします。子どもたちに話を聞いてみても、父親を「厳しい人」と捉える子より、「やさしい人」と捉える子の方が圧倒的に多いようです。反対に母親を「やさしい人」と捉えるより「厳しい人」と捉える子が最近増えてきているようです。

  即ち、父親がどんどん優しくなり、母親がどんどん厳しくなって、父親と母親の違いが無くなり、両親の「同質化」が進んできているような気がします。まあ今の時代は、両親の共働きが普通になり、互いに仕事や趣味を持ちながら、共にパートナーを組んで、同じように子育てをしていくことが現実的で理想的なのかもしれません。しかし「同質」か「異質」か、どちらがよいかは別として、大切なことは、必ず両親の価値観と教育方針は一致させ、その共通理解の基で、お互いの役割分担をよく話し合い、共に子育てをしていくことだと思います。 
                      皆さんのご家庭はいかがですか。

07:49 | 投票する | 投票数(31)
2022/11/18

「キャリア教育」のススメ②(監督から)

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「キャリア教育」のススメ②  監督 齊藤 秀樹
   「キャリア教育」シリーズの続きを書きます。先週は、「ただ何となく、どんな仕事についても、今までと同じくらいの生活はできると安易に考えている子どもたちが多い。」というところまで書きました。

【金銭と労働】 
    子どもたちに「お金」について理解させるには、まず“金銭は労働によって得られるもの”ということを教えることが基本となります。
   今まで私が学級担任をしていたクラスの中に、小学校5年生で総額13万円のお年玉をもらったという子がいました。地元で会社経営をしていた家の娘さんなので、おそらくお正月にたくさんの社員や関係者が家に集まってきて、たくさんのお年玉をくれたのだろうと、特に気にもせず、ただ「すごいな。」と職員室での話題にはなっていました。しかし、その後本人からよくよく話を聞くと、お年玉を一番多くくれた人は父親で、その額はなんと3万円だったという話を聞いて愕然としました。

   その後、父親と会って話をする機会があったので、余計なことかもしれませんが、なぜそんなに我が子にお金をあげるのかと聞いてみたことがあります。何でも父曰く「自分は昔、貧乏でほしい物があっても買ってもらえず、ずいぶん惨めな思いをした。だからせめて娘にだけはそんな思いをさせたくない。」というのが教育方針なのだそうです。個々の家庭のことなので他人が口を挟むことではないかもしれませんが、私は「ほしい物が買えなかったことをバネに、将来を夢見て人一倍働き、努力したからこそ、今の生活があることをどうして子どもに教えないのだろう。」「この子にとってお金の価値って…。」と考えさせられました
 
 未だ労働経験のない子どもたちに、大人がお金を得るために、どんな苦労や努力をしているのか。自分に与えられたお金がどんなに大切で価値あるものなのかについて、子どものうちにしっかり教えておくことは大切なことだと思います。

【「働く」ということ】
   そういえば数年前に海外から日本の教育制度を視察に来た先生方が、ある高校の「進路相談室」を見せてもらうと、大学入試の資料しか置いていないその部屋に驚いて、「日本の『進路相談室』は、『進学相談室』のことなのか。」と言ったそうです。

 しかし最近は、どこの学校でも「職業体験」を実施するようになりました。前にも紹介したとおり私の勤務した学校では毎年30ヶ所近くの事業所の協力を得て半日の体験学習をしていました。また中学生になると2日間の本格的な「職業体験」が行われます。これは中学生のうちから体験を通して、職業(労働)について学び、大人の社会を知り、将来の夢を持ったり、心の準備をさせるというすばらしい取り組みだと思います(現在はコロナ禍で実施せず、事業所の職員を呼んで講話を受けるという学校も増えています)。毎年小学校にも「学校の先生になりたい」という夢を持った生徒が職業体験に来て、「先生の仕事の大変さがよくわかった。」「先生になりたいという気持ちが今まで以上に強くなった。」という感想を残して帰っていきます。

   私たちは今まで「働く」ことを通して「職業」(就労)や「金銭」という中身について、子どもたちと真剣に語り合うことが少なかった気がします。「ただ何となくフワフワと生きている若者たち」に“今と同じ生活が将来も保証されている訳ではない”ということを“自分の人生は自らの手で切り拓いていく”ことを、そして“日本の将来は、君たちの双肩にかかっている”ということを、大人が本気になって真正面から教え、伝えるべきだと思います。

07:19 | 投票する | 投票数(66)
2022/11/11

「キャリア教育」のススメ(監督から)

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 「キャリア教育」のススメ① 監督 齊藤 秀樹      

 現在各学校では、キャリア教育の実践されています。「キャリア教育」とは「子どもたちが自立して社会で生きていくために必要な基礎基本となる人生観や職業観を育成する」というものです。この活動は、子どもたちが将来に対して夢を持ち、その夢の実現に向かって「今、何を、どうすればよいのか」という、自分の人生のキャリアデザインを描かせることが重要です。

 キャリア教育を充実させるためには、「本物に触れる」「実際に体験する」という活動が欠かせません。私が以前校長として勤務していた学校(原小学校)のある牧の原駅周辺の学区には、何でも揃う大型ショッピングモール、スーパーマーケット、コンビニ、飲食店が点在し、草深地区には豊かな自然の中で農家が複数あり、更に公民館、消防署、保育園等の公共機関も全て揃っています。そんな恵まれた地域の特性を最大限生かして、毎年20ヶ所以上の事業所にご協力いただいて、6年生が「職業体験」を実施していました。

【現在の若者たちの労働観】 
  「仕事に就いて働く」というのは本来、国民の義務です(就労義務)。しかし現在の若者たちを見ていると、特定の職業に就かずに、アルバイト先を転々として、「何とか楽をして稼げる方法はないか。」とか、「お金さえもらえるなら何をやっても平気だ。」とか、「こんな仕事だとは思わなかったので辞める。」というような、労働を気軽な遊び感覚で捉えてしまっているような風潮があるのではないかと心配しています。
 これは何も、急激な社会の変化に伴って、行き先不透明な経済状況を反映した就職難が問題だということではなく、もっと本質的な問題ではないかと思っています。
 今の若者たちと話をしていて私がつくづく感じるのが“労働”というものに対する「執着心のなさ」と「無知ぶり」そして何より「金銭感覚の欠如」です。                                                       
【職業が見えない】
  「職業」と「住居」の分離が進んでいる現在では、自分の親が一体どんな仕事をしているのかが、子どもたちから理解しにくくなっています。このことは同時に、「働くということの実態が、子どもの目には見えにくくなっている」とも言えます。
 例えばスーパーに行って、子どもが買い物をしたとき、レジを打つ人の仕事はある程度理解できるでしょうが、そのスーパーがどのように品物を仕入れ、その品物がどこで作られ、どうやってスーパーまで運ばれてきて、どのようにスーパーの商品棚に並ぶのかは、子どもにとっては見えない「視野外の仕事」ということになります。
 
 そう言えば、何年か前にある先生が「仕事をする父親」という題で、子どもたちに絵を描かせたことがあるそうです。するとその中で「生き生きと働く父親の姿」を描いてきたのは、全て“農業か自営業の父”を持つ子どもに限られていたそうです。反面、サラリーマンを父に持つ子の絵は、窓ガラスを背景にきちっと背広を着て椅子に座り、机の上には、電話とパソコンと書類が置いてある…。という画一的で全く個性のない絵ばかりだったそうです。
 まあ子どもにしてみれば、父親の仕事など実際に見たこともなく、ただ漠然とテレビドラマか何かで見た情景を、オフィスにダブらせて描いただけなのでしょうから、仕方のないことかもしれません。
 このように、現在の子どもたちにとっては、「職業について働く」ということが、大変見えにくくなっています

【何とかなる】 
    更に今の時代は、中学から高校に進学するのが当たり前になっていますから、子どもたちはここ当分仕事に就く必要はないし、まして大学への進学を考えている子にとっては、遙か10年以上先のことなので、どうしても関心が薄くなってしまいます。
 また、大変恐ろしいことですが、子どもたちは「ただ何となく、どんな仕事に就いても、ある程度の生活はできる。」と安易に考えているところがあります。何不自由なく生活してきた子どもたちにとっては、今までがそうだったように、これから先も親と同じくらいの生活は可能だと信じているようです。
                        つづく                       
                                   

08:30 | 投票する | 投票数(101)
2022/11/03

教育の目標は「生きる力」の育成(監督から)

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 教育の目標は「生きる力」の育成  監督 齊藤 秀樹

  「お母さん、今日雨降るかな。」「そうね。天気予報でもそう言っていたし、この様子だときっと降るから、傘を持って行きなさい。」「はーい。」ある朝の玄関先での会話です。ところがその日は予想に反して一滴の雨も降りませんでした。学期末で荷物が多い上、傘まで持って帰ってきた息子は、開口一番「何だよ。雨なんか降らなかったじゃないか。お母さんの嘘つき。」と言ってすごい勢いでプンプン怒っています。
   実はお母さんの天気予報は結構よく当たり、家族もそれを認めていて、時折それを無視して出勤してしまう父親が、夜の帰宅時になると「傘がないので迎えにきてくれ。」と電話をしてくる度に、母親から小言をもらっている姿を子どもたちもよく見ていました。そんな母親の口癖は「いい。お母さんの言う通りにしておけば間違いないのよ。」でした。

 さて、このように‘母親の判断こそが正しい’という経験が続けば、子どもは“自分で考え、判断し、決定する”ことをやめてしまいます。何でも母親に尋ね、それに従っていた方が楽だし、たまに不都合が起こってもそれは全て母親のせいにしてしまえばよいのです。即ち、子どもは結果を見て、その責任を引き受けなくてよいのです。子どもは有能な母親に依存し、ほとんど失敗や後悔を味わうことなしに、子ども時代を過ごすことができます。
 しかし、当然そういう育ち方をしていると、その子は母親なしでは生きていけない、とても不安な子になります。そして、何かにつけて思い通りにならないことを「誰かのせい」にする被害者意識の強い子にもなります。

 考えてみれば人生というのは“判断”“決断”の連続です。今日傘を持って家を出るかどうかも1つの判断です。何かを決めるということは、同時に何かを捨てることでもあります。時に切り捨てたものの大きさに悔やむこともあるでしょう。しかし、子どもたちは日々の生活の中で小さな判断を繰り返すことによって“自分で考え、判断し、決定する”ことの難しさを学びます。これは同時に、自分で下した判断の結果に直面し、それを「自分の責任」として引き受けなくてはならないということも学ぶのです。思い通りにいかない人生を、どうやって生き抜いていけばよいのかという力を身につけていくのです。
 これはとても厳しい学習です。子ども自身が判断し、決定するまでじっくり待ち、そこでどんな結果が出ようとも、それを責めたり叱ったりすることなく見守れる大人の存在なくしてできないことです。

 保護者として、子どもたちから慕われ頼られる存在であることはすばらしいことです。でも、それに満足していると、いつしか知らぬ間に、子どもを自分の思い通りにする「あやつり人形」にしてしまっていることがあります。今育てなければいけない自主性や責任感という大切な芽を摘んでしまってはいけないと思います。
  
 個性とわがままをはき違え、「自由でしょ。勝手でしょ。関係ないじゃん。放っといて。」を主張し、なかなか親の言うことを聞かない子の扱いに困っている親が多い昨今、親の言うことを聞く素直な子は確かに“よい子”です。しかし、「言われたことしかできない子」や「言われなければやらない子」は、私に言わせればとても“心配な子”です。

  「いつまでも あると思うな 親と金」という言葉がありますが、教育の究極の目標は、「生きる力の育成」だと思います。「生きる力」とはどんなに時代が変化し、どんな社会が来ようとも、社会の中で自立し“自分で考え、判断し、決定していく”という 力のことです。子どもに生きる力を身につけさせるには、子どもの頃から、日常生活の中で「信じて、任せて、やらせてみる」という経験を日々積み重ねていくことが大切だと思います。  

15:31 | 投票する | 投票数(133)
2022/10/28

「努力する」ということ(監督から)

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 「努力する」ということ   監督 齊藤 秀樹

 ノーベル賞受賞者で数学者の広中平祐氏はその著書の中で「自分で目標を決め、それに向かって努力するかしないかで、その結果に大きな違いが出る」と書いています。自ら目標を決めそれを達成するために最大限の努力をするってすばらしいことです。

 最近、教育の世界で「楽しい」という言葉がとてもよく使われるようになった気がします。「楽しい学校」「楽しい授業」「スポーツの楽しさ」…。確かに子どもたちに楽しさを味わわせるというのは大切なことだと思いますが、私が大切にしたいのは「楽しい」よりも「うれしい」(喜び)という体験です。よく「楽しさと喜び」という言い方もされますが、この両者には大きな違いがあると思っています。

 「楽しい」という言葉は、自分の好きなことを、自分なりにやっているだけで「楽しい」のですが、「喜び」というのは「できた。やった。勝った。うれしい。」という感動・感激体験のことです。そして、その気持ちを味わうには必ず“苦しくても、歯を食いしばって、精一杯努力した”という過程が入ります。即ち「努力」です。何かが成功したとき、何かをやりとげたときに、バンザイして飛び上がるほどうれしい。失敗したり、夢が叶わなかったときに、涙があふれて止まらないほど悔しいという心情は、その過程の中で精一杯の努力をしない子には決して味わうことのできない感情です。
 私は日々の練習や試合の中で数多くの感動・感激体験を味わわせ、常に“やればできる”を信じて努力できる「活力ある子」を育てたいと思っています。
 何度も同じことを言いますが、子どもには無限の可能性があります。大きな夢や目標を持ち、それに向かって努力すれば叶わない夢なんかないし、これから先の人生をどうにでも創っていくことができます。
 
 人生経験が豊富な私たち大人は、今までに多くの失敗や挫折を経験してきているため、つい「無理しなくていいのよ。」「あなたは今のままで十分よ。」という言い方を子どもにしがちですが、もしかすると、そのことが子どもの秘められた可能性を限定し、小さくまとめてしまっているのかもしれません。「無理だ」「できっこない」「どうでもいい」なんていう言葉は、たかだか10年前後しか生きていない子どもたちが口にするには、あまりに悲しい、情けない言葉だと思います。
 いつもとは言いませんが、時には本人の気分や意志に関係なく無理矢理にでも「やってみろ!」と尻を叩き、「もういいかな。」という我が子かわいさを少し我慢して「まだまだ!」と突き放してみることも必要ではないかと思っています。

  しかしよく考えると「努力」というのは、実はその子の能力には関係なく、一人ひとりの意識の中にかなりの差があるものです。学校のマラソン大会の前に「先生、昨日グラウンドを3周も走ったよ。」と満足そうに言ってくる子もいれば、30周走っても「自分には、まだ努力が足りない。」と感じている子もいます。テスト前に教科書を一通り10分くらい読んできて、「今日のテスト勉強は完璧だ。」という子もいれば、2時間以上かけて、あらゆる問題を解いてからテストに臨む子もいます。このような大きな違いがあるにもかかわらず、本人は「努力した」と同じ気持ちでいるのです。

  子どもの可能性を信じることは大切なことですが、このことは必ずしも結果の平等を意味しないと思っています。自分自身が努力不足を自覚している子はまだよいとして、他人(先生や指導者)から見れば、どう見ても努力したとは思えないのに、本人は満足してしまっている子というのは、当然ですがいつまでたっても結果がついてきません。こういう子は一言で言えば“自分に対して甘い子”です。

  こういう子には、時に叱咤激励して、無理矢理にでも結果を出させ、自信を持たせてあげることで意識改革をさせることが必要だと思います。
 SAAではこれからも‘やればできる’を信じて、自分に甘えることなく、時には歯を食いしばって全力で努力し、「やった。できた。勝った。」という感動・感激体験をたくさん味わわせてあげられる、そんなクラブでありたいと思っています。

08:26 | 投票する | 投票数(167)
2022/10/22

人との違いを認められる豊かな心(監督から)

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人との違いを認められる豊かな心 監督 齊藤 秀樹
 
    ある生徒指導の専門書に「いじめられやすい子の4つのタイプ」というのがありましたので紹介します。

①目立ちたがり屋で自己主張の強い子
②おとなしく消極的で目立たない子
③勉強が苦手な子。運動が苦手な子。行動が遅い子等
④何でも良くできて優秀な子。リーダー性のある子  だそうです。

 もう皆さんも感じていると思いますが、これを見ると「いじめの本質」がとてもよくわかります。それは、この4つのタイプにクラスの子を当てはめようとすれば「全員が当てはまる」ということです。即ち、いじめの被害は、今や「いつでも、どこでも、誰にでも起こりうる」ということです。

 辞書によると『個性』とは「他の誰とも違う、その人特有の性質、個人差」とあります。私が古くからつきあっているアメリカ人の友人は、「私は小さい時からよく親に、『人と違う人になりなさい』とか『人に惑わされないで、しっかり自分というものを持ちなさい』と教わってきたよ。」と言います。このように欧米人にとっては当たり前のように教育されている「個性」(他人とは違う自分)というものが、どうも日本人にはうまく育てられないような気がしています。
 
    日本の家庭の中で「他人と違う人になれ」ということを重視して子育てをしている親がどのくらいいるでしょうか。おそらく多くの家庭は「皆と同じように」とか「皆と違わないように」と願っているはずです。日本人というのは昔から「他人との違いを認めることを嫌がる」傾向がある国民だと思っています。まぁこれは同じ島国で生まれ、同じ肌の色、同じ髪の色、そして同じ言葉を使って長い間生活してきたのですから、「同じ」ことが普通であって、「違う」ことは普通ではないのでしょう。言い方を変えれば「同じ」であることが一番安心で居心地がいいのかもしれません。

 しかしこのことが、「隣の子が塾へ行けば、家の子も行かせなきゃ。」と焦りだし、「小学5年生のお小遣いは、いくらくらいが普通でしょうか。」と平均を気にし、「家の子は他の子と比べてどうでしょう。」と心配する、“どの子も皆同じ意識”に通じています。

    また、「あの人はどうも個性的でねぇ。」とか「あの人の意見はいつも個性的すぎる。」等の言葉をよく耳にするように、『個性的な人間であること』が必ずしもよい評価を得られず、時には批判の対象にされていることからも明らかだと思います。

 では「個性」をどうとらえるか。「個性」をどう育てるか。についてですが、私は、他人と比べたその子の特長というよりは、もっと広く、一人ひとりが持っている「その子らしさ」(取り柄)ととらえたいと思います。人にはない優れた面を持っている子には「その子にしかない『よさ』を発見し、引き出し、伸ばしてあげる」。反対にただ真面目で目立たない子や、消極的な子に対しては「それを自分の『持ち味』として自覚させ、その生かし方を教えてあげる」ことが大切だと思います。
 そして、一人ひとりの子が皆持っている「その子らしさ」が、将来その子の人生の中で「生かされる」よう導いてあげることが、私たち大人の役割ではないかと思います。

   私が尊重したい「個性」とは、一人ひとりの子が持っている「よさ」「取り柄」「持ち味」のことだと考えます。

 私はSAAの活動方針の柱として“人との違いを認められる豊かな心の育成”(個性の尊重)を掲げています。最近のいじめに見られる「皆と違う面をからかいの材料にする」「人より優れた面を発揮すると妬まれる」という、皆が同じでなくてはいけないという形式的平等意識をなくし、一人ひとりが“その子らしさ”を思う存分発揮できる、そんな活力あふれる魅力的なクラブでありたい”と願っています。
 
 “人はみんな違ってみんないい”のですから。

14:40 | 投票する | 投票数(189)
2022/10/14

子どもの本質を見抜く力(監督から)

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  子どもの本質を見抜く力  監督 齊藤 秀樹

 我が子が何らかのトラブルや事件を起こし、その旨を学校から家庭に連絡すると、多くの保護者が「まさか。家の子に限って…。」「そんなはずはない。何かの間違いではないのか…。」という反応が返ってきます。しかしこれは、わが子を愛し大切に育ててきたという思いと、我が子のことは誰よりも自分が一番理解しているはずだと思っている保護者にとっては、ある面当然の反応なのかもしれません。

    確か10年位前のことだったと思いますが、ある高校1年生の女生徒が、友人である同級生を自宅で殺害し解剖しようとしたというショッキングな事件がありました。当時のマスコミ発表の記事を読むと、「被害者に全く恨みはなく、ただ人を殺してみたいという欲望が抑えられなかった。」と供述しているといいます。この女生徒の父親は弁護士、母親も東大卒のエリート家族で、何不自由なく裕福な家庭の中で育ち、成績も大変優秀な子だったそうです。そんな優等生がなぜ大それた犯罪を犯してしまったのか。「まさか…。信じられない。」と学校関係者や親はさぞ驚いたことでしょう。しかし、実はここに大きな落とし穴があるのです。

 子どもを知らずして、また知ろうとせずして教育は成り立ちません。私たち教師も何とかして一人ひとりを理解しようと日々努力していますが、「子どもを理解する」ということはそんなに簡単なことではありません。小さいころならともかく、小学校高学年~高校生位の思春期に入っている子は、私たち大人の前ではベールをかぶることが多くなるからです。

 私が未だ若かったころ、近くの中学校に大変学級経営が上手い先生がいて、その先生の学級会がすばらしいから、是非一度見せてもらうといいよ、というアドバイスを校長先生からもらって見に行ったことがあります。学級会のテーマは『最近カサがよくなくなるので、その対策をみんなで考えよう。』というものだったと思います。
 学級委員を中心に、実に活発な意見のやりとりがあり、「一人ひとりの置く場所をしっかり決めよう。」「全校集会で皆に呼びかけよう。」「雨の降った日は全員が交代で監視に立たなきゃダメだ。」等の意見が出て、チャイムと同時に結論がまとまり終了しました。うわさ通りのすばらしい学級会で、こんなに子ども達を生き生きと活動させる先生がいるんだなと、とても感動しました。

 休み時間になり、先生が教室を去った後、近くで談笑している生徒たちがいたので、「すばらしいね。」「たいしたものだ。」と話しかけたところ、突然その中の一人が「あんなことやったって無理に決まっているじゃん。」と言い出しました。私はびっくりして「何を言っているんだ。みんなカサが無くなって困っていたから話し合ったんだろ。」と言うと、「別に困らないよ。」という返事。「どうして?」「無ければ黙って他のやつのを持って行けばいいんだ。」「馬鹿なことを言うな。そんなことをしたら持って行かれた他の子が困るじゃないか。」「大丈夫だよ。そいつはまた他のやつのを持って行くから。」私は頭に来て「おい。君は確かさっき『生徒会に提案してみよう』と言っていたじゃないか。」と強く言うと、その子は一瞬困った顔をしましたが、周りを見回して、そっと私にこう言いました。「ああ言えば、めでたしめでたしで終わるから。」「…」
 何のことはない。彼らは学級会が得意だという先生の手前、“学級会ごっこ”をして、よく参観に来る先生方に見せていただけだったのです。

    私たちはともすると、その子の本質を見抜けずに「この子はしっかりしたよい子」とか「この子はいい加減でだらしがない子」というようなレッテルを貼り、それを基準に子どもを理解したつもりでいることはないでしょうか。
   子どもの本質を見抜くためには、次の3つのことが大切です。

①子どもにはいろいろな顔があることを理解し、授業中、掃除中、休み時間、家庭の中、休日や放課後、習い事…の様子をできるだけ幅広く見たり、聞いたりすること。

②いつまでも昔のイメージを持たずに、子どもは日々変容し、成長していくものだとい う柔軟性と新鮮な目を持って子どもを見ること。

③教師や親に対して、あるいは教室や家庭の中で、本性を隠しベールをかぶる必要がな いような、安心できる人間関係・信頼関係を作っておくこと。

  「まさか。家の子に限って…」にならないためには、子どもを信じると同時にその本質を見抜き、幅広く正しく理解できる力量を持たなければならないと思います

13:59 | 投票する | 投票数(214)
2022/10/07

「成績」について考える(監督から)

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 「成績」について考える       監督 齊藤 秀樹

 現在多くの学校が2学期制(前期・後期)を実施しています。9月から10月にかけては、多くの学校では終業式(前期終わりの会)を実施し、子ども達の手元には、前期の成績(通知表)が配られたことと思います。そこで今回はお馴染みのこのテーマで書いていきたいとお思います。

 俗に「天才」と呼ばれている偉人たちの、子ども時代の学業成績を集めた「天才の通信簿」(プラウゼ著)という本をご存じでしょうか。この本を読むと「いったい学校時代の成績って何だったんだろう?」と考えさせられます。カントやヘーゲルといった人たちは、学校(子ども)時代から神童と呼ばれ天才の名をほしいままにしてきた人達ですが、反対に学校時代は落ちこぼれと言われ心配されていた人が、いつしか天才に化けたという例もたくさんあります

    プラウゼによれば、エジソン、リンカーン、ノーベル、ルソーなどはその典型だそうです。その理由としては大きく2つが考えられます。1つ目は、あまりにスケールが大きすぎて、学校という規格に当てはまらず、教師もその才能を見抜けなかったこと。2つ目は、これらの人に共通することですが、自分の好きなこと(興味あること)にしか関心を示さず、得意・不得意があまりにもはっきりしすぎていたため、多くの学校が目指す「知・徳・体」のバランスのとれた優等生にはなれなかったことです。どちらにしても、日本にも「二十歳過ぎればただの人」ということわざがあるとおり、学生時代の成績が必ずしも将来とは関連しないというよい例だと思います。

    こういうことを書くと必ず「先生、それは違うんじゃないですか。今の時代は…」という反論が起こります。こういう人たちは、おそらくみんな共通して“学歴”(良い成績を取ることがその子の優秀さの証であり、上級学校への進学を可能にする)という重みが、他の要素や可能性、これからの変化や成長というものを圧倒して、大きく意識の中にあるのでしょう。そして、あたかも成績の善し悪しがその子の“格付け”になり、良い成績を取れば未来は開かれるが、悪ければ全てが閉ざされてしまうがごとく考えてしまっているのかもしれません

   さて、先日学校からもらった「通知表」ですが、ここに記載されている「◎」「○」「△」は、そのままその子の人間としての実体や価値ではありませんし、もちろん格付けでもありません。教科の方は、前期の間(4月~9月)にどれだけの学習内容が目標に到達したかを示しています(到達度評価)。皆さんが子どもの頃の評価は相対評価といって、クラスの中での位置(上中下)を示していましたが、現在の評価は、先生が決めた基準(例えば、90%以上が◎、70%以上が○、それ以下が△というように)がどこまで到達したか(理解できたか。身についたか。)を評価しますので、学習の定着度はわかりますが、クラス内での位置や順位を図るものではありません。
 また、行動面の評価はこの到達度評価に加えて個人内評価も加味されていますので、その子個人としての長所や成長、努力したことに「○」がついています。

 さて、今回私が各家庭にお願いしたいのは、苦手な算数の思考力を叱るより、得意な体育のボールゲームでの活躍を認めてあげてほしい。うるさくて調子に乗りやすい性格を叱らずに、常に明るく前向きな面を褒めてほしい。ということです。子どもは日々変わり成長していくものですから、一番大切なのは「過去」ではなく「未来」です。どうぞ、せっかくの実りの秋前に、子どもがやる気をなくし自信喪失状態になるようなことは、言いたくても腹の中でぐっとこらえ、「よくがんばった。後期もまた新しいことに挑戦してがんばろう。」という温かい励ましをお願いします。 
 どうぞ、充実した後期をお過ごしください。


07:23 | 投票する | 投票数(226)
2022/09/30

「競争心」について考える③(監督から)

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 競争心について考える③   監督 齊藤 秀樹

  運動会は、大勢の友だちや大人達が見ている前で、ハッキリと勝敗や順位が決まる場です。だから勝てば喝采を受けてとてもいい気持ちになる反面、負けたときはとてもくやしい気持ちになります。
  それを受けて、「たくさんの観衆の前で順位をつけるような競走は好ましくない。」「遅い子がかわいそうだ。」という一部の保護者からの反対論に押され、運動会で徒競走を中止する学校や、中には徒競走はみんなで手をつないで横一列でゴールするという学校まで出てきてしまいました。

 これは間違っていると思います。

 たかだか一年に一度の運動会のたった一つの種目にこれほど神経質になる必要があるのでしょうか。数多くの多様な個性や能力を持った子どもたちが集まり生活する学校では、「みんな違ってみんないい」し、「人との違いを認め、個性を尊重し合える心の強さや大きさを持ってほしい」と思っています。「ひいきだ。」という言葉を気にした“形式的平等”は、子どもたちから「自分なりに精一杯がんばる」という“活力”を減退させます
 
 日常の学校生活では控え目でおとなしく目立たない子でも、「かけっこ」だけは得意で、唯一の特技だという子が、一年に一度晴れがましくゴールテープを切り、輝いたっていいじゃないですか。「ずるいな。あいつばかり目立って。むかつく。」なんて思う子は、あまりに心が貧しすぎます。私は素直に「すごいね。さすがだね。おめでとう。よーしぼくは得意の漢字でがんばるぞ。」という子を育てたいのです。
 
 走るのが苦手で徒競走がビリだって、歌が抜群に上手い子や、計算が速い子、友達を作るのが上手な子、健康で一日も学校を休まない子はたくさんいます。子どもたちには誰にでも、これだけは人に負けないというものが必ずあるはずです。
 この世の中に競争のない世界なんてありません。子どもの頃に競争することから遠ざけられた子どもたちが、社会に出て行ったとき、現実の世界に対応することができず辛い思いをするのは本人です。
 
 自分の得意不得意を事実として認め、自分探しをしながら自分に一番合った職業を選択し、競争社会をたくましく生き抜いていくための力を、子どもの頃から身につけていくことはとても大切なことだと思います。
  
 「競争」では負けた悔しさと勝った喜びを味わうことができます。私は負けた悔しさがあるからこそ、勝った喜びがあると思っています。そしてこの体験は、飛び上がってバンザイしたくなるほどの感動・感激体験として心と体の中に刻み込まれます。
 同時に、自分と他人との違いを受け入れ、認め、尊重する豊かな心を育てます。
 
 私たちの仕事は一人ひとり違う個性や能力を持った子どもたちを、あらゆる場面で、一人でも多く輝かせることだと思っています。
 競争心は、優劣がつくという厳しい現実の中で、勝利という目標に向かって、少しでも自分を成長させるために、自分の持っている無限の可能性を引き出し、伸ばすために必要だと思います。
 ただし、その使い方や生かし方をよく考えて使うのは、私たち大人の役割です。
                                    完

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2022/09/23

「競争心」について考える②(監督から)

Tweet ThisSend to Facebook | by:スタッフ
 「競争心」について考える②  監督 齊藤 秀樹
  
 先週は競争心を「ただ勝てばよい」というマイナス面ではなく、「勝つために最大限の努力をする」というプラス面で考えていく必要がある。というところまで書きました。今回は「子どもをダメにしてしまう競争心の使い方」(マイナス面)について考えてみます。
 
 親なら誰しも我が子をよい子に育てたい。何としてもがんばってほしいと願い、大きな期待をかけていることと思います。これは当然のことだし、なくては困ります。 
 しかし実際には、なかなか親の思い通りにはいかないことも事実です。そこで親として様々な働きかけを子どもにしますが、その1つとして「競争心をあおる」という方法を取ることがあります。しかし、実はここに大きな落とし穴が潜んでいる場合があるのです。今回は実際に私が担任時代に出逢った事例から「競争心の間違えた使い方」について考えてみたいと思います。

事例①
   マラソン大会が間近に迫ったある日のこと、S君が私の机の前にやってきて「先生、今度のマラソン大会で10位以内になったら、お父さんが自転車を買ってくれるって。僕がんばるから。」とうれしそうに話しかけてきました。私も「よかったな。がんばれよ。」と励ましました。いよいよマラソン大会当日、私は各学年の子どもたちと一緒に走っていましたので、結果については全く知らずに、大会後の後片付けをしていました。そこへS君と仲の良いT君が困った顔でやってきて、私にこう訴えました。「先生どうしよう。S君が順位カードを取り替えてくれってしつこく言ってくるんだ。一生のお願いだから。一番の親友だろって…。」実はS君が11番でT君が10番だったのです。
 
 実はこういう話は珍しいことではありません。「成績が上がったら小遣いを増やしてくれる。」「100点取ったら、100円くれる。」「優勝したら携帯電話を買ってあげる。」「…。」何としてもがんばってほしいと望む親の働きかけが、「物」や「金」でやる気を出させ、競争心をあおるという形になってしまった結果、子どもは不正だとわかっていても無理をしようとします。そして、これが繰り返されると、報酬なしには努力をしない“打算的でずるがしこい子”になってしまう恐れがあります。

事例② 
   数十年前の家庭訪問での出来事です。玄関に入った途端、「先生、うちの子いい子でしょう。私たち夫婦の自慢の子どもなんです。」と突然待っていたご両親に言われたことがありました。
 その子は確かに性格も穏やかで、友人にも優しく、勉強も出来る子でした。でもなぜか伸び伸びとした子どもらしさがない子だなと思っていました。そんなある日、私は信じられない光景を目撃してしまったのです。朝早く誰も登校していない教室で、その子が今日実施する予定のワークテストの解答を、私の戸棚から盗み見しているところを…。放課後その子を呼んで、なぜそんなことをしてしまったのかをよくよく聞いてみると、涙ながらに「どうしても百点を取って、お父さんとお母さんにほめられたかった。」「両親の喜ぶ顔を見て、あなたは本当にいい子ね。」と言われたかったそうです。「先生うちの子いい子でしょう。私たちの自慢の宝物なんです」と言われ続けてきた結果がこれです。その子は残念ながらその後も、冬休みの書き初めの宿題に、私が全員に書いて配った手本を、明らかに下に敷いて写し書きにした作品を持ってきたことがありました。理由は前と同じ、良い賞を取ってほめられたかったからだそうです。ダメだと言われ続ける子もかわいそうですが、良い子と思われ続けるのも辛いものです。親の勝手な世間体や見栄で、常にプレッシャーを受けて、無理によい子を演じてダメになっていく子というのも少なくありません

 このように、目先のことだけを考え、あせって結果を出そうと誤った競争心の使い方をすると、後で取り返しのつかないことになります。競争心は必要だと思います。しかし、その使い方によっては善にも悪にもなる可能性があることを心に置いて、広く長い目で、今子どもに何を培うことが必要なのかを考えることが大切だと思います。    
                                   つづく

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