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子どもの叱り方①(監督から)日誌05/16 07:10
子どもの褒め方・叱り方②日誌05/11 14:19

          齊藤 秀樹  監督

 
 

監督から

日誌
2025/05/16new

子どもの叱り方①(監督から)

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     子どもの叱り方①      監督 齊藤 秀樹

 「子どもをほめる」というのは大切な教育です。しかし、ただほめているだけでは決してよい子は育ちません。しつけの基本は「承認」(よいことは認められ、ほめられる)と「拒否」(いけないこと、ダメなことは禁止され、しかられる)の使い分けです。子どもはこの両方を経験を通して、しだいに自分の行動をコントロールしたり、自分自身の中に善悪の判断基準を形成したりしていきます。また、叱られるということは、裏を返せば「自分のことをいつも考え、心配し、大切にしてくれている」=「愛されている」という実感にもつながります。では、どのように子どもを叱ったらよいのかについて、2週にわたって考えてみたいと思います。

  ここに「叱り方」のよい例がありますので紹介します。
(例1)
 ある中学2年生の女の子がスーパーで万引きをしてしまい、学校に連絡が入ったので担任が引き取りに行き、担任が自宅に送り届けた時の話です。
 玄関に入った瞬間に、待ち構えていた母親に「パチン。パチン。」とほっぺたを叩かれ、「あんたは何てことをするの。もう我慢できません。お父さんが帰ってきたら思いっきり折檻してもらいますからね。あんたなんか、警察でも施設でも何処へでも行ってしまいなさい。」そして更に「こんな近所のスーパーで万引きなんかしたら、折角買ったこの家にもう住めなくなってしまうでしょう。冗談じゃない。全く。」とものすごい剣幕で怒鳴られていました。女の子はその間、唇をかんだままじっとうつむいて、一切の返事もせずにふて腐れていたそうです。

(例2)
 ある中学1年生の子が本屋で万引きをしてしまい、学校で担任と話した後、家まで送り届けた時の話です。家に入ると父親が奥の部屋で待っていて、父、母、本人、担任が向かい合わせの席に座りました。そして担任から本人に「今日あったことを自分の口から言いなさい。」と言うと、その子は涙ぐみながら「あのな…。今日な…。帰ったらな…。暇だったので本屋に行ってな…。」とボソリボソリと話し出しました。その間、父親と母親は目をつぶったまま膝の上に握りこぶしを置いてじっと子どもの話を聞いていました。そして一通り話が終わった瞬間、父親が畳の上に手をついて「先生。どんなにできが悪くても、こいつは私の息子です。どうか勘弁してください。明日きちっと本屋に一緒に行って謝らせますから。」と涙をボタボタこぼして言ったそうです。その姿を見た息子はビクッとして「お父さんごめんなさい。許してください。もう二度とこんなことはしませんから。」と、父親に抱きついて泣いて謝ったそうです。

   さて、この2人の親の叱り方はどこが違うのでしょうか。
   確かなことは、前者の母親の「体罰、脅し、泣き落とし、世間体」という叱り方が全く娘の心に入らなくて、後者の父親の「どんなにできが悪くても、私の息子です。」が、なぜ心に響いたのでしょうか。この例は、私たち大人が子どもをどう叱ったらよいかの大切なヒントを与えてくれています。皆さんはわかりますか。
                                                                                つづく


07:10 | 投票する | 投票数(37)
2025/05/11

子どもの褒め方・叱り方②

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子どもの褒め方②  監督 齊藤秀樹
 実は「ほめる」と「しかる」は紙一重だと言われています。何故かというと、これは子どもの特性や性格、行動をどう見るかによって決まるからです。具体的には、プラスで見るかマイナスで見るかによって、良くも悪くも見えてしまうということです。今回は数多くの講演会などで最も「へぇー。ほぉー。」という歓声があがる、子どもを褒めることが苦手なお父さん、お母さん必見の“逆転の発想で子どもを褒める”について紹介したいと思います。
  マイナス(欠点と見れば)         プラス(長所と見れば)
     おせっかい       →   世話好き
     頑固な分からず屋              →          芯があり意志が強い
                 人見知り                              →          まじめで慎重
                わがまま                          →          正直 素直
                でしゃばり                            →          前向きで挑戦的
                お調子者                                →          ユーモアがありおもしろい
                いばっている                         →          自信がある
                仕切りや                                →          リーダー性がある
                気性が激しい                         →          情熱的 野性的
                消極的                                    →          謙虚でつつましい
                マイペース                             →          常に落ち着きがある
        ぶっきらぼう                          →          嘘がつけない
     
       いかがですか。子どもの性質は見方を変えれば長所となりますよ。
14:19 | 投票する | 投票数(64)
2025/05/02

シリーズ「子どもの褒め方・叱り方」①(監督から)

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子どもの褒め方・叱り方①
  子どもの褒め方   
   監督 齊藤 秀樹

 子どもの評価には、大きく3つの方法があります。1つ目は「相対評価」といって、他の子と比較することで、その子が集団の中でどのくらいの位置にいるかを評価します。1番なのか、中間なのか、中の下くらいなのか…というように「集団内での位置」を評価するものです。2つ目は、「到達度評価」(絶対評価)といって、親や先生があらかじめ示す基準にどれだけ到達できるかで評価します。90%以上なら十分満足、70%以上ならおおむね満足、60%以下ならまだまだ努力不足…というように到達度で評価します。ちなみに、現在の通知表はこの評価ですので、クラス内の位置や順位は関係ありません。3つ目は「個人内評価」といって、その子個人の中で、よいところはどこなのか、悪いところはどこなのか、伸びたことは何なのかを評価するものです。   

   さて、子どもをほめることが苦手な方には、ぜひ「個人内評価」をお薦めします。更にその中での「加点評価」(+評価)を心がけると、ぐっと子どもをほめる機会が増えると思います。例えば“掃除”を取り上げて帰りの会で「○○君は、いつもしゃべらないできちんと掃除をやっているね。偉いぞ。」とほめます。これは4月当初が20点の掃除しかできなかった子に、2ヶ月たって60点をあげられるまでに成長した時に使います。20点が60点になったということは、3倍も努力し成長したことになります。これを加点評価と言います。なかなか子どもをほめられない大人の中には、常に自分の満足度を100点に設定し、そこまで到達しなければ認めないという人にとっては、○○君の現在の60点は-40点であり、全然だめだということになってしまいます(これを到達度評価の減点評価といいます)。また、他人と比べて何点だったかという相対評価も、「お母さん九九が4の段まで言えたよ。」と嬉しそうに自慢している子に対して、「何言ってんの、お姉ちゃんなんかあなたの頃には9の段まで言えたわよ。」になってしまい、本人が頑張ったことをほめてあげられません。

 どの評価法も時には必要かもしれませんが、子どもが1つでもできるようなったら、少しでも努力し成長が見られたら、それを見つけ、認め、ほめてあげることが「よし。次も頑張るぞ。」という意欲や向上心につながります。

  “子どもは 誰でも よい芽を持っている”
  “子どもは 誰でも 認められたいと思っている”
 “ほめれられることを 嫌いな子はいない”    のですから。   つづく 

13:58 | 投票する | 投票数(110)
2025/04/25

自分で考え、判断し、決定する力(監督から)

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自分で考え、判断し、決定する力 監督 齊藤秀樹

 新学年(新学期)が始まってまもなく一ヶ月が過ぎようとしています。各学校では今年初めての授業参観や保護者会が行われていましたが、学校での子どもたちの様子はいかがでしたか。そこで今週はおなじみのこの記事から書いていきたいと思います。

  「お母さん、今日雨降るかな。」「そうね。天気予報でもそう言っていたし、この様子だときっと降るから、傘を持って行きなさい。」「はーい。」ある朝の玄関先での会話です。ところがその日は予想に反して一滴の雨も降りませんでした。新学期で荷物が多い上、傘まで持って帰ってきた息子は、開口一番「何だよ。雨なんか降らなかったじゃないか。お母さんの嘘つき。」と言ってすごい勢いでプンプン怒っています。
   実はお母さんの天気予報は結構よく当たり、家族もそれを認めていて、時折それを無視して出勤してしまう父親が、夜の帰宅時になると「傘がないので迎えにきてくれ。」と電話をかけてくるたびに、母親から小言をもらっている姿を子どもたちもよく見ていました。そんな母親の口癖は「いい。お母さんの言う通りにしておけば間違いないのよ。」でした。
 さて、このように‘母親の判断こそが正しい’という経験が続けば、子どもは“自分で考え、判断し、決定する”ことをやめてしまいます。何でも母親に尋ね、それに従っていた方が楽だし、たまに不都合が起こってもそれは全て母親のせいにしてしまえばよいのです。即ち、子どもは結果を見て、その責任を引き受けなくてよいのです。子どもは有能な母親に依存し、ほとんど失敗や後悔を味わうことなしに、子ども時代を過ごすことができます。
 しかし、当然そういう育ち方をしていると、その子は母親なしでは生きていけない、とても不安な子になります。そして、何かにつけて思い通りにならないことを「誰かのせい」にする被害者意識の強い子にもなります。
 考えてみれば人生というのは、“判断”の連続です。今日傘を持って家を出るかどうかも1つの判断です。何かを決めるということは、同時に何かを捨てることです。時に切り捨てたものの大きさに悔やむこともあるでしょう。しかし、子どもたちは日々の生活の中で小さな判断を繰り返すことによって“自分で考え、判断し、決定する”ことの難しさを学びます。これは同時に、自分で下した判断の結果に直面し、それを自分の責任」として引き受けなくてはならないということも学ぶのです。思い通りにいかない人生を、どうやって生き抜いていけばよいのかという力を身につけていくのです。
 これはとても厳しい学習です。子ども自身が判断し、決定するまでじっくり待ち、そこでどんな結果が出ようとも、それを責めたり叱ったりすることなく見守れる大人の存在なくしてできないことです。
 保護者として、子どもたちから慕われ頼られる存在であることはすばらしいことです。でも、それに満足していると、いつしか知らぬ間に、子どもを自分の思い通りにする「あやつり人形」にしてしまっていることがあります。今育てなければいけない自主性や責任感という大切な芽を摘んでしまってはいけないと思います。
  「いつまでも あると思うな 親と金」という言葉があります。教育の究極の目標は、「生きる力の育成」です。「生きる力」とはどんなに時代が変化し、どんな社会が来ようとも、自分のことは“自分で考え、判断し、決定していく”という力のことです。生きる力を身につけるには、子どもの頃から、日常生活の中で日々実践し、積み重ねていくことが大切だと思います。

12:57 | 投票する | 投票数(153)
2025/04/18

子どもは社会を映す鏡(監督から)

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 子どもは社会を映す鏡  監督 齊藤秀樹

  『星の王子様』という本の冒頭に、「大人は誰でも、はじめは子どもだった。」という有名な言葉があります。しかし、このことを忘れずにいる大人というのは、とても少ない気がします。

 最近よく大人たちが、「今の教育は…」とか「今の学校は…、今の子どもたちは…。」という話題を口にしているのを聞きます。「今の子は昔と違って…。俺の子どもの頃には…から始まって、今の教育はなっとらん。」になります。このように、眉をひそめて、もっともらしい教育論を展開し、「子どもたちはしょうがない。昔の方がずっとよかった。」的な発言を聞いていると、「ちよっと待てよ。おかしいぞ。」という気がしてきます。

 今の子どもたちは、大人が作った世界の中に生きているわけで、子どもの世界というものが大人の世界とは別に存在するわけではありません。「すぐにいじけて、我慢ができず、他人のことを考えない、わがままな子どもたち。」こんな子どもたちを作ったのは、大人の責任であって、子どもが自分から勝手にそうなった訳ではないと思います。
  それなのに、大人の世界が子どもの世界と「別のもの」という錯覚を起こしてしまうのは何故なのか。それは、大人があまりに子どものことを知らなすぎる(無関心すぎる)からだと思います。別の言い方をするなら、大人は大人、子どもは子どもで生活し、その距離が離れすぎていると言えるかもしれません。

 大人は大人の望む自分本位の生活環境に社会を変えてきました。自家用車の急増により路地裏の遊び場は安全ではなくなり、家の周りの空き地にはたくさんの家が建ってしまいました。兄弟も減り、おじいちゃんおばあちゃんとも暮らさなくなり、ペット飼う自由さえ奪われてしまいました。更に様々な生活便利品や魅力的なメカゲームが、子どもたちを室内に吸い寄せ、体を動かす機会を奪ってしまいました。
 このように本来あるべき「子どもらしい生活」が、大人の作った生活に巻き込まれてしまったことで、まだ発育途中の未熟な子どもたちが最もその影響を受けることになったのです。そのことが今まで予想もつかなかった「心と体のゆがみ」(例:転んでも手が出ないのですぐに顔や歯をぶつける。他人とコミュニケーションがとれず集団生活ができない。…。)を生むことになってしまったのではないでしょうか。

 現在、社会問題になっている青少年の凶悪化した犯罪(少年非行)も、実は過去に何回かの波があったようです。
  昭和20年代は「生活型の非行」と言われ、戦後の混乱の中で、親がいない、お金がない子どもたちが、生きるために(食いつないでいくために)あちこちで、窃盗や売春行為を繰り返していました。
 昭和30年代後半は「反抗型非行」と言われ、急激な都市化、工業化が進んだために、環境の変化に適応できない「反社会的行為」(暴行、傷害、シンナーなど)が急増しました。
 昭和50年代後半は「遊び型非行」と言われ、豊かな社会の中で、価値観が多様化し、普通の家庭の子が遊び感覚でバイクを乗り回し、集団で暴れ回っていました。
 そして平成から令和に入った近年は、経済が混迷する中、行き先不透明な社会の中で、何をめざしてどう生きていけばよいのかがわからずに、訳もなく凶悪化、粗暴化した「生き方探しの戸惑い非行」(?)が多発しています。

 これらは全て、その時々の社会の変化が子どもの世界に大きな影響を与えていることを物語っています。「子どもは社会を映す鏡」です。子どもたちが投げかけている問題は、私たち大人たちが歩んできた道への反省であり、同時に「これからの社会がどう進んでいけばいいのか」という新たな課題を提示してくれているのかもしれません。

07:05 | 投票する | 投票数(210)
2025/04/08

「はじめの一歩」を大切に(監督から)

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「はじめの一歩」を大切に   監督 齊藤 秀樹

  進学・進級おめでとうございます。今年度もおなじみのこの記事で始めます。
  先日の4月7日の始業式での一場面です。始業式が終わり、「それでは今から担任の先生の発表をします。」と言うと、子どもたちが急にそわそわザワザワし始め、体育館が何とも言えない緊張感に包まれます。そして校長先生から「○年○組、○○先生」と次々に担任を発表するたびに、あちこちから「わぁーい。やった。バンザイ。」「えー。うそー。あーあ。」「うっ。(シーン)…」等実に様々な反応が返ってきます。私たち教師は、必ず毎年この何とも言えないこの瞬間に立ち会わなければなりません。そして、緊張気味の先生方をよそに、子どもたちは実にシビアに(素直に)一喜一憂して見せます。
  
   私たち教師の仕事は、まずはこの出会いを正面から受け止め、ここから新たな関係づくりをスタートさせなければなりません。私立学校や学習塾のように、この学校(塾)で学ばせたいという保護者と、教わりたいという子どもを集め、試験や面接を通して学校(塾)が入学を許可した子どものみを教える相思相愛型の出会いとは違い、公立の小学校の場合は、「子どもは担任を選べない。担任も子どもを選べない。」という原則の下、共に選んだわけでもない両者が偶然に出会い、そこから少しずつ時間をかけて、信頼関係や師弟関係づくりが始まっていきます。

 「千里の道も一歩より」「はじめのボタンをかけ違えると、最後のボタンははまらない」という通り、「はじめの一歩」はとても大切なのです。しかし、よく考えてみると、始業式で見せた子どもの反応は、あくまでその先生の表面的なイメージからのものであり、実はその後に行われた各クラスでの自己紹介や学級指導、更にその後、数日間の授業や様々な活動の中で、少しずつ担任の先生の人柄や生い立ち、そして、めざす子ども像や経営方針などが理解できるようになっていくものです。

   私たちは全く別々の生い立ちや個性や能力を持ったお子さんを、別々の考えや方針を持った保護者から預かり育てるという仕事をしていますので、当然監督やスタッフのやり方については賛否両論が出てきます。だからこそ、チーム責任者である監督が「自分はこういう考え方で、こういう子どもたちを育てたい」という教育観や方針をはっきり示すことが大切だと思っています。クラブと家庭、あるいはスタッフと保護者が、全く同じ考えだということはまずありません。しかしお互いに共通していることは「子どもをたくましく、よりよい子に育てたい」という願いです。ですから大切なことは「私の考えとは違うけれど、監督の考えや、やっていることはよく理解できる。」という“違いを認め、理解し合うことで、折り合いをつけていく”ことが大切です。

 そのためには「子どもたちは今こんなことに頑張っています。そしてこんなに変身し成長しました。」というクラブでの子どもの姿を公開し、常に情報を発信し続けていくことが信頼関係づくりには重要だと思っています。

   子どもというのは日々変化し成長していくものです。また。その時々の立場や環境によって様々な顔を持っています。ですから、親が我が子を一番理解していることは事実ではありますが、子どものころのイメージや前学年までの姿、また家族と過ごしている時の顔というのは、必ずしも固定的なその子の現状や本質ではないことが多いものです。

 このSAAだより「監督から」は、SAA練習時の子どもの様子や変容、成長をお知らせしたり、今クラブで取り組んでいることや私の教育理念や方針、更に最新の教育情報や役に立つ子育てのポイントなどを毎週きちんと各家庭にお伝えすることで“クラブと家庭の橋渡し”になってほしいという願いを込めて発信していきます。

 今年度も多くの保護者の方々に「今週の“監督から”まだ?」と言っていただけるような魅力的なたよりにしていけるよう努力したいと思います。

16:20 | 投票する | 投票数(272)
2025/03/21

SAAっ子よ 大志を抱け(監督から)

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 ‘光陰矢の如し’と言われますが、2024年度も明日が最終日です。活力あふれるすばらしい子どもたちと過ごしたこの一年、あまりにもたくさんの思い出がありすぎてとても一枚には収まりきれません。
 長い間ご愛読いただいたこの「監督から」も今日で最終号とさせていただきます。保護者の皆さんの多大なるご理解ご支援、本当にありがとうございました。

  
SAAっ子よ 大志を抱け  監督 齊藤 秀樹
 昭和の初期に、一握りのエリートたちが、国民の意思をかえりみず、日本を軍国主義へと導き、戦争に突入させました。その結果、日本は敗戦のどん底を味わうことになりました。その反省から、日本人は心のどこかで立身出世を否定し、人間は誰もが生まれながらにして平等なのだから、特定の人間が権力を握ることはよくないという意識を持ってきたような気がします。しかしこの考え方は専制的なリーダーの在り方に問題があるのであって、人の上に立つリーダーはいらないという、「リーダー不要論」ではないと思います。会社でも、学校でも、地域でも人間が何人か集まれば、その中にリーダーシップを取る人が必ず生まれます。したがってリーダーのいない集団とか組織というのは、実際にはあり得ないのです。

 しかし今の子どもたちを見ていると、人の上に立つことを嫌い、他人からできるだけ目立たないように行動し、みんなと上手く合わせることをよしとする傾向があります。そんな子どもたちに「大志を抱け」とか「大きな夢を持て」なんていってもピンとこないことが多いようです。最近の子どもたちに将来の夢や希望を聞いてみると「普通のサラリーマン」とか「のんびりとした穏やかな家庭の主婦」なんて答える子がいかに多いことか。そんな中「大会社を立ち上げ社長になる」とか「総理大臣になって日本を変える」なんて言う子がいると、すぐに「冗談はよせ」「無理無理」なんて笑われ相手にしてくれません。大きな夢を持ち、それに向かってがんばることが悪いはずがないのに…。

 私たち大人は、長い人生をもう半分近く歩いてきてしまったので、今からやり直すことはかなりの勇気がいりますが、たかが10年くらいしか生きていない子どもたちには、これから先、できないことなんかないし、叶わない夢なんかないと思います。可能性は無限に広がっていると思います。言い換えれば、未来に大きな夢を持てるということが子どもの特権と言ってもいいかもしれません。

 世の中には、包丁一本で世界を渡り歩き、アメリカで大人気の和食レストランを経営している人。パリで美容室を開き、大成功をおさめた人。国連に入り世界の人々のために働いている人。…。こういう人を見ていると、日本なんていう小さな枠を超え、出身や学歴なんかに頼らず、自分の頭と体一つで努力さえすれば何でもできるんだなと思います。もちろん派手で大きなことをすることだけが人生の価値だとは思いません。報いられることの少ない職場を必死で守り抜く人や、人のために自分を犠牲にして尽くす人なども、考えようによっては大きな生き方だといえるかもしれません。

 人生の成功者になれる人はほんの一握りかもしれません。しかし子ども時代に立てた“青雲の志”は自分の人生にとって必ず大きな財産になります。小学生のころから夢を持たず、目標達成のための努力もせず、人生をオリてしまっている子どもたちに、小さくまとまりがちな子どもたちに、大きな夢や希望を持たせ、自分の人生は無限に開かれているんだということを教えてあげたい。それが私たちの大人の役割だと思います。
                                    完

09:12 | 投票する | 投票数(359)