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          齊藤 秀樹  監督

 
 

監督から

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2021/08/03new

子どもを「一流」に育てる①(監督から)

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子どもを「一流」に育てる①       監督 齊藤 秀樹
 
  さて現在日本では「東京オリンピック」が開催されています。確か以前にも書いたと思いますが、オリンピックを通して、活躍した選手の生い立ちや環境とそれを支えた親の「子育て法」には、ある共通点があるということについて紹介していこうと思います。そこで今週から子どもを「一流」に育てるには、どんな教育理念や方針が必要なのかについて、私の教え子たちの話も取り入れながらシリーズで考えていきたいと思います。  

【やりたいことは自分で決めさせる】
 「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」という諺がありますが、子どもたちの中には、ピアノ、習字、サッカー、ダンス、公文、学習塾、そろばん、英語…とたくさんの習い事をやり、毎日忙しく過ごしている子がいます。しかし、親から無理矢理押しつけられた習い事は長続きしません。まあ親としては将来子どもが困らないようにいろいろなことができる子どもになってほしいという願いがあり、時に自分がやりたくてもやらせてもらえなかった経験から、自分の夢を子どもに託したい気持ちを持つ方もいるでしょう。
 しかし「無理矢理やらされている」と思っているうちは、何をやっても子どもは主体的に真剣には取り組みません。いつも言っていることですが、子どもが成長するために最も必要な資質は「活力」(自分から「知りたい」「わかりたい」「できるようになりたい」「勝ちたい」「活躍したい」という内面からのエネルギー)ですたどり着きたくもないゴールに向かって全力で頑張れる子はいません。

 そうは言っても、小学校低学年の子どもは、親ほどの情報量をまだ持っていません。自分の中に眠っている無限の可能性(自分にとって何が大切で、自分は何が好きで、何が苦手なのか)が十分理解できていません。そこで親は子どもの性格や能力、教育環境(習い事の先生の質や教育方針)などの情報を収集し、積極的に子どもに提示し、選択肢をいろいろと示してあげることが大切です。しかし重要なのはその選択肢の中から最終的に決断するのは子ども自身だということです。自分で決断し、目標を持ったときの子どもの頑張りは親の予想を遥かに超えます。「下手な鉄砲は、いくら撃っても当たりません」、子どもは自分が「言いだしっペ」になってこそがんばれると思います。  

 私の教え子の中に、大きな病院の2代目を次ぐ運命の子どもがいました。母親は強烈な教育ママで、大学は医学部以外は行かせないという厳しい方針で育てられました。ところがどこでどううまくいかなかったのかわかりませんが、彼は高校受験で第一志望校から第三志望校まで全て失敗し、次の大学受験は医学部に三浪までして挑戦しましたが、結局合格できませんでした。その後、彼はすっかり人生の目標を見失い、今はどこで何をしているのか私も友人たちも誰も知りません。利発で素直で努力家だった彼はクラスの人気者でした。そんな彼をあのようにしたのは、本人の意志や選択を全く無視し、進路や人生設計を強制的に押しつけた親のせいだと、当時もっぱらの評判になりました。

    今回のオリンピック選手の中には幼少時から親の方針で体操や卓球をやっていた例があります。しかし練習を重ねていく中で、間違いなくその競技が好きになり、自分の特技となり、自分はこの道で行くという強い意志を持って努力し続けたからこそ輝けたのだと思います。きっかけは親でも自分の判断と活力がなければ決して一流にはなれないと思います。                           つづく

09:16 | 投票する | 投票数(15)
2021/07/27

「やればできる」の原点(監督から)

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  「やればできる」の原点 監督 齊藤 秀樹
    私がこの言葉を30数年の教員人生及び陸上指導者人生の中で、いつも使い続けているのは、多くの子どもたちの夢を叶え、時に奇跡を起こし、忘れられない思い出を共につくってきたからです。今回はその原点となった子どもたちとの思い出について久しぶりに書いていきたいと思います。
  
  今から30年以上前のことですが、私が初めて教員になって担任したクラスが佐倉市立小竹小学校の5年1組でした。当時佐倉市には、市内全小学校の5・6年生の全クラスが参加する「学級対抗リレー」という一大イベントがありました。私は9月採用でしたので、慌ただしい毎日を過ごしながら、訳もわからずに、11月1日に開催されるこの大会に子どもたちと共に参加しました。ところが予選、準決勝、決勝と行われ、今年の佐倉一の学級はどこになるかと会場が盛り上がる中、なんと私のクラスは男女とも、最初の予選で他のクラスから30メートル以上引き離されて、ダントツのビリでした。

  学校に戻り、子どもたちに自身の指導力のなさからみんなに恥ずかしい、悲しい思いをさせてしまったことを謝りました。ところがその後子どもたちの口から出てきた言葉を聞いて、愕然としてしまいました。「先生、僕たち全然悔しくないよ。」「かけっこなんか速くなくてもいいじゃん、僕たちの方が頭はいいんだから。」「どうせやったって無理。」「…。」私はこれはまずい、このままではいけないと思い、「ふざけるな。冗談じゃない。やる前からあきらめたり、自分の可能性を限定したりするのは許せない。」と言って、思わず「よし、来年の学級対抗リレーでは、男女とも絶対に優勝させてやる。」と約束をしてしまいました。

  次の日から担任とクラスの子全員による陸上練習が始まりました。私は学生時代は水泳部でしたので、陸上の選手経験もなければ、まして指導歴も何もない、全くのド素人でしたので、文献を読みあさったり、専門家に聞きに行ったり、強いチームの練習法を見に行ったりしながら、試行錯誤で毎日子どもたちと夢中で練習しました。練習は土日にも、長期休業にも行われ、1月1日(元旦)以外の364日間毎日続きました。当時のことを思い出すと申し訳なさでいっぱいになりますが、当時の私の信念は「人一倍努力し、誰よりもたくさん練習すれば負けるわけがない」「努力は決して裏切らない」というかなり精神論・根性論的な指導でした。しかし不思議と子どもたちは皆私についてきてくれ、保護者も文句も言わずに温かく応援してくれました。

  6年生の夏休みを過ぎると、クラス全体が学級対抗リレーの優勝に向けて異様な盛り上がりを見せ始めました。ある日、放課後練習が終わり、職員室で明日の教材研究や事務処理を済ませて帰宅しようと外へ出ると、真っ暗なグラウンドから「ハイ。ハイ。」という聞き覚えのある声が聞こえてきました。時間は夜の9時、まさかとは思いましたがグラウンドへ行くと、選手の子どもたちが自主的にバトンパスの練習をしていました。子どもたちを集め、どうしてこんな時間に練習をしているのかを聞いたところ、「先生が誰よりも努力したら勝てると言ったから、夕食を食べて宿題をやった後に、集まって練習しているんです。」と言います。涙が出るほどうれしかったのですが、いくら何でもやりすぎだと思い、学校の練習で十分だと説得し、家まで送って帰宅させました。本番で選手になる子は男女とも4人ずつですが、選手以外の子も毎日皆一緒に汗を流して努力してきた仲間なので、放課後集まって旗や横断幕をつくったり、応援歌を作ったり、神社へ行って優勝祈願をしたりしてくれました。

  そしていよいよ本番の日。結果は大会史上初となる、1クラスの男女がダブル優勝。しかも大会新記録での圧勝でした。飛び上がって泣きじゃくり大喜びする子どもたちと、感動で涙が止まらない保護者たち。信じられない奇跡が現実に起こった瞬間でした。
  これが「やればできる」の原点となった忘れられない思い出です。実はこの時もしも「必ず勝たせてやる。」という子どもとの約束を果たせなかったら、私は教員を辞めるつもりでいました。しかし、神様は自分の人生をかけて夢の実現に挑戦した私を見捨てることはありませんでした。

 子どもには無限の可能性があります。大きな夢や希望を持ち、それに向かって努力すれば、できないことなんてないし、叶わない夢なんてないと私は今でも信じ続けています。

09:07 | 投票する | 投票数(54)
2021/07/20

「競争心」は必要である(監督から)

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 「競争心」は必要である       監督 齊藤 秀樹
    運動会やマラソン大会は、大勢の友だちや保護者の方々が見ている前で、ハッキリと勝敗や順位が決まる場です。だから勝てば喝采を受けてとてもいい気持ちになる反面、負けたときはとてもくやしい気持ちになります。
  それを受けて、数年前から「たくさんの観衆の前で順位をつけるような競走は好ましくない。」「遅い子がかわいそうだ。」という一部の保護者からの反対論に押され、運動会で徒競走を中止する学校や、中には徒競走はみんなで手をつないで横一列でゴールするという学校まで出てきてしまいました。

 ずばり。これは間違っていると思います。

  たかだか一年に一度の運動会のたった一つの種目にこれほど神経質になる必要があるのでしょうか。数多くの多様な個性や能力を持った子どもたちが集まり生活する学校では、「みんな違ってみんないい」し、「人との違いを認め、個性を尊重し合える心の強さや大きさを持ってほしい」と思っています。「かわいそうだ。ひいきだ。」という言葉を気にした“形式的平等”は、子どもたちから「自分なりに精一杯がんばる」という“活力”を減退させます
 
  日常の学校生活では控え目でおとなしく目立たない子でも、「かけっこ」だけは得意で、唯一の特技だという子が、晴れがましくゴールテープを切り、輝いたっていいじゃないですか。「ずるいな。あいつばかり目立って。むかつく。」なんて思う子は、あまりに心が貧しすぎます。私は素直に「すごいね。さすがだね。おめでとう。よーしぼくは得意の漢字でがんばるぞ。」という子を育てたいのです。
 
  走るのが苦手で徒競走がビリだって、歌が抜群に上手い子や、計算が速い子、友達を作るのが上手な子、健康で一日も学校を休まない子はたくさんいます。子どもたちには誰にでも、これだけは人に負けないというものが必ずあるはずです。
 この世の中に競争のない世界なんてありません。子どもの頃に競争することから遠ざけられた子どもたちが、社会に出て行ったとき、現実の世界に対応することができず辛い思いをするのは本人です。
  自分の得意不得意を事実として認め、自分探しをしながら自分に一番合った進路を選択し、競争社会をたくましく生き抜いていくための力を、子どもの頃から身につけていくことはとても重要なことだと思います。
  
 「競争」では負けた悔しさと勝った喜びを味わうことができます。私は負けた悔しさがあるからこそ、勝った喜びがあると思っています。そしてこの体験は、飛び上がってバンザイしたくなるほどの感動・感激体験として心と体にしっかり刻み込まれます。
 同時に、自分と他人との違いを受け入れ、認め、尊重する「豊かな心」を育てます。
 
  私たちの仕事は一人ひとり違う個性や能力を持った子どもたちを、あらゆる場面で、一人でも多く輝かせることだと思っています。
  競争心は、優劣がつくという厳しい現実の中で、勝利という目標に向かって、少しでも自分を成長させるために、自分の持っている無限の可能性を引き出し、伸ばすために必要だと思います。 

07:39 | 投票する | 投票数(88)
2021/07/13

「努力する」ということ(監督から)

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 「努力する」ということ  監督 齊藤 秀樹

  さて以前にも書きましたが、ノーベル賞受賞者で数学者の広中平祐氏はその著書の中で「自分で目標を決め、それに向かって努力するかしないかで、その結果に大きな違いが出る」と書いています。自ら目標を決めそれを達成するために最大限の努力をするってすばらしいことです。

  最近、教育の世界で「楽しい」という言葉がとてもよく使われるようになった気がします。「楽しい学校」「楽しい授業」「スポーツの楽しさ」…。確かに子どもたちに楽しさを味わわせるというのは大切なことだと思いますが、私が大切にしたいのは「楽しい」よりも「うれしい」(喜び)という体験です。よく「楽しさと喜び」という言い方もされますが、この両者には大きな違いがあると思っています。

 「楽しい」という言葉は、自分の好きなことを、自分なりにやっているだけで「楽しい」のですが、「喜び」というのは「できた。やった。勝った。うれしい。」という感動・感激体験のことです。そして、その気持ちを味わうには必ず“苦しくても、歯を食いしばって、精一杯努力した”という過程が入ります。即ち「努力」です。何かが成功したとき、何かをやりとげたときに、バンザイして飛び上がるほどうれしい。失敗したり、夢が叶わなかったときに、涙があふれて止まらないほど悔しいという心情は、その過程の中で精一杯の努力をしない子には決して味わうことのできない感情です。

 私は日々の練習や試合の中で数多くの感動・感激体験を味わわせ、常に“やればできる”を信じて努力できる「活力ある子」を育てたいと思っています。
 何度も同じことを言いますが、子どもには無限の可能性があります。大きな夢や目標を持ち、それに向かって努力すれば叶わない夢なんかないし、これから先の人生をどうにでも創っていくことができます。
 
 人生経験が豊富な私たち大人は、今までに多くの失敗や挫折を経験してきているため、つい「無理しなくていいのよ。」「あなたは今のままで十分よ。」という言い方を子どもにしがちですが、もしかすると、そのことが子どもの秘められた可能性を限定し、小さくまとめてしまっているのかもしれません。「無理だ」「できっこない」「どうでもいい」なんていう言葉は、たかだか10年前後しか生きていない子どもたちが口にするには、あまりに悲しい、情けない言葉だと思います。
 いつもとは言いませんが、時には本人の気分や意志に関係なく無理矢理にでも「やってみろ!」と尻を叩き、「もういいかな。」という我が子かわいさを少し我慢して「まだまだ!」と突き放してみることも、時には必要ではないかと思っています。

  しかしよく考えると「努力」というのは、実はその子の能力には関係なく、一人ひとりの意識の中にかなりの差があるものです。学校のマラソン大会の前に「先生、昨日グラウンドを3周も走ったよ。」と満足そうに言ってくる子もいれば、30周走っても「自分には、まだ努力が足りない。」と感じている子もいます。テスト前に教科書を一通り10分くらい読んできて、「今日のテスト勉強は完璧だ。」という子もいれば、2時間以上かけて、あらゆる問題を解いてからテストに臨む子もいます。このような大きな違いがあるにもかかわらず、本人は「努力した」と同じ気持ちでいるのです。

  子どもの可能性を信じることは大切なことですが、このことは必ずしも結果の平等を意味しないと思っています。自分自身が努力不足を自覚している子はまだよいとして、他人(先生や指導者)から見れば、どう見ても努力したとは思えないのに、本人は満足してしまっている子というのは、当然ですがいつまでたっても結果がついてきません。こういう子は一言で言えば“自分に対して甘い子”です。

  こういう子には、時に叱咤激励して、無理矢理にでも結果を出させ、自信を持たせてあげることで意識改革をさせることが必要だと思います。
 白井アスレチックアカデミーではこれからも、‘やればできる’を信じて、自分に甘えることなく、時には歯を食いしばって全力で努力し、「やった。できた。勝った。」という感動・感激体験をたくさん味わわせてあげられる、そんなクラブでありたいと思っています。

09:14 | 投票する | 投票数(110)
2021/07/06

学校・家庭・地域の連携(監督から)

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 学校・家庭・地域の連携      監督 齊藤 秀樹

  当たり前のことですが、子どもの教育は「家庭」「学校」「地域」によって営まれるものです。ですから学校というのは子どもたちを教え育てる主たる場所ではありますが、当然その全てではありません。

 外国(欧米)の学校では、ずいぶん前から原則として、「勉強は学校」「行事やスポーツ活動は地域」「しつけは家庭」という互いの役割の分化がしっかりとできているそうです。例えば、勉強のことは学校に任せているのだから、教科書は学校へ置いておき、授業参観などもあまりやらず、反対にスポーツ大会(日本では運動会)や遠足、自然教室などは地域が中心になって行うそうです。

    では今の日本はどうでしょう。家庭学習は学校の先生が宿題として出す。公共マナーや買い物の仕方は生活科で教える。遊ぶ友だちがいなければ先生が中に入って何とかしてあげる。万引きや喫煙などの非行(問題行動)が起こると、先生が飛んでいって指導する。…。そうした結果、学校教育の中に遊びや生活体験の要素が数多く加わり、問題行動が起こらないように生徒指導(しつけ)がどんどん厳しくなっていく。反対に、地域にはたくさんの学習塾や習い事塾ができて、多くの子が放課後や休日には塾へ通い勉強する。という役割の混同が起きています。

 ずばり言わせてもらうと「学校は病院ではない。まして警察でも裁判所でもない。学校は勉強を教えるところだ。」と思います。歴史的な学校の成り立ち(寺子屋~学校)から見てもこれは確かなことだと思います。
    しかし、そうは言っても、日本の学校には勉強以外にも、昔から学校行事や部活動などの、日本独特の価値ある活動がたくさんあります。また、同年代の子どもたちが毎日集まり、多くの時間、空間を共同体として過ごす場は、現実的に学校しかありませんので、やはり人間関係づくりや規範意識(約束やルールは必ず守る)などの社会性を育てるのも、学校教育の大きな役割だと思っています。

  要するに私が言いたいのは、日本も欧米のように役割を明確に分離すべきだということではありません。もっともっと学校と家庭・地域が深く結びつき、交流し、皆で知恵を出し合って、協力しながら、一緒になって子どもたちを育てていこうということです。

    そんな中、親子で過ごす時間を作り、日々のコミュニケーションを大切にしている素敵な家族、地域で社会体育(スポーツクラブ)を指導し、子どもたちの体力づくりや仲間づくりに毎週汗を流してくれているお父さん、読み聞かせや除草作業、交通安全指導などのボランティアに率先して参加してくれるお母さん、PTAや家庭教育学級の役員さん、いつも子どもたちのために楽しいイベントを企画し、様々な活動をしてくれている社会福祉協議会や青少年相談員等の地域の皆さん、本当にありがとうございます。

    これからも皆さんと力を合わせて、次代を担う大切な宝物である子どもたちを共に育てていきましょう

09:09 | 投票する | 投票数(119)
2021/06/29

本番で力を発揮する方法(監督から)

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  オリンピックを一ヶ月後に控え、小学生の県大会、中学生の総体が目前に迫っています。そこで今回はせっかくの機会なので、様々な大会、試験などで使える「本番で力を発揮する方法」について紹介していきたいと思います。
  
  本番で力を発揮する方法        監督 齊藤 秀樹
  よくオリンピックや世界大会などを見ていると、優勝候補(素質や技能が優れた選手)が、本番のプレッシャーや緊張感に負け、実力を出し切れずに負けてしまい、期待していた人々をがっかりさせることがよくあります。これらは全て精神力の弱さから来るものです。しかしこの精神力の弱さというのは生まれつきのもの(遺伝、血液型、性格)だとあきらめてはいけません。大きな試合やピンチの場面などで、普段通り自分の力を発揮する力は、実は日常の訓練で克服できるものなのです。この精神力を鍛える訓練を「メンタルトレーニング」と言います。

 この精神力を科学的に強化するという訓練の始まりは、1950年代に旧ソ連で宇宙計画の一環として始まったと言われています。それが東欧諸国に広がりスポーツの世界に応用したことで一気に競技力が向上しました。その後アメリカなどが率先して取り入れ、次第に全世界に広がっていきましたが、日本では1985年頃からようやくスタートしました。当時の日本のスポーツ界は「試合に勝てないのは気合いが足りないから」という精神論が古くから根付いていたため、研究や実践はかなり世界から遅れてしまいました。
 しかし現在多くのスポーツ関係者がこのトレーニングに注目し実際に成果を上げています。これは身につけておくと、試合、運動会、コンサート、試験、受験…様々な場面で応用でき、とても有効な方法ですので、今回はその一部を紹介いたします。

【イメージトレーニング】
    大会や試合がある前日には、知らず知らずのうちに神経質になり緊張感も高まってきます。そんな時は頭の中で、「自分のすばらしいプレーや活躍する姿を思い浮かべる」ことです。過去に一番がんばった姿や勝利の瞬間のイメージなどが、どんどん頭の中に浮かんでいけばしめたものです。例えば「スタートの瞬間に素早く反応し、ぐんぐんスピードが上がって他の選手を引き離していく。なんだかいつもより体が軽く、足もよく動き、あっという間に1位でゴールする。」そんな姿を思い浮かべるのです。ただし、決して失敗したり転んだりする姿を思い浮かべてはいけません。せっかくのイメージトレーニングがダメージトレーニングになってしまいます。

【ルーティン】
  この技法を取り入れていることで有名なのが、野球のイチロー選手です。彼はバッタボックスに入ると必ずユニホームの肩や袖をつまみ、バットを立ててピッチャーの方へ向けます。彼は毎回行うこの同じ動作で緊張感をほぐし、平常心を保っているのです。前前回のラグビーワールドカップで流行し、多くの子が真似た五郎丸選手の動きもそうですが、練習からいつも同じ動作を繰り返すことで自分の心をコントロールすることができるようになります。

【深呼吸】
  さあいよいよ100メートルの決勝です。スタートの直前は胸が激しく高鳴ってきます。そんな時には大きく深呼吸を1~2回するとよいでしょう。息を吸うときは腹式呼吸で胸よりもお腹に空気を入れ、吐くときは全身の筋肉をリラックスさせます。すると不思議と緊張が取れ、集中力が高まってきます。いつでもできる最も単純で簡単な方法ですが、常に習慣づけしておくといざという時に役に立ちます。 

 これらの動きは本番だけやろうと思っても効果がありません。普段の生活や練習時から常に訓練し、習慣付けておくことが大切です。

08:51 | 投票する | 投票数(127)
2021/06/22

大人は、誰も、はじめは、子どもだった

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“大人は、誰も、はじめは、子どもだった” 監督 齊藤 秀樹  

    私は柏市という所に住んでいます。そして地元の柏にはたくさんの友人たちがいます。もちろん一番多いのは同業者である教員ですが、その他にも、会社員、市役所、医者、会計士、床屋、葬儀屋、焼き鳥屋、建設業、市場関係者…実に様々です。みんな30年来の友人たちですので、いつも「先生」とか「ひでき」と言って仲良くしてくれる大切な仲間たちです。

 そんな友人たちが集まると、よく「今の教育は」とか「今の子どもたちは」という話題が出てきます。そしていつもきまって「今の子どもたちは昔と違って…」「俺たちのガキのころには…」という話になってきます。例えば「いじめなんてものは、昔からどこにでもあったものだよ。弱虫で泣き虫の奴はよくいじめられていたもんだ。しかし今のいじめっていうのは、陰湿でジメジメしてしているし、加減というものがわかっていないんだ。その辺が昔とは違って悪いところだな。」なんて言って、眉をひそめて知ったような顔で教育論議に花を咲かせています。私はいつもこういう「昔と比べて、今の子どもたちはどうしようもない」的な発言を聞くと腹が立ってきます。

 それは自分が長年教員という仕事してきたからというのではなく、子どもというのは大人が作った社会の中で生きているのであって、子どもの社会というものが大人の社会とは別に存在するわけではないと思っているからです。「今の子は、わがままで、我慢ができず、陰湿で、世の中をなめている」そんな子をつくったのは、間違いなく大人の責任であって、大人の世界と子どもの世界が別々にあると錯覚しているのは、大人が子どものことをあまりに知らなすぎる(無関心すぎる、放ったらかしすぎる)からに他ならないと思います。別の言い方をすると、大人は大人、子どもは子どもで生活し、両者の距離が離れすぎていると言えるかもしれません。

 皆さんは今子どもたちの間で流行っている遊びやテレビ番組、ゲームや漫画、子どもたちが集まる場所等をどれくらい知っていますか。数年前にある教育調査で「子どもの思いやり度調査」というのがあり、その中の項目に「好きなテレビをがまんして家族に譲ったことがありますか。」という質問に対して、多くの子が「自分の部屋にあるから経験がない。」と答えていました。家族の各自が自分の部屋にこもって、お互いの世界には干渉しないで過ごすという家庭も多いのではないでしょうか。先週も書きましたが、最近、頻繁に起こっている青少年の凶悪な犯罪の中には、毎日生活を共にしているにもかかわらず、我が子の変化や歪んだ性癖に、「まさか家の子に限って…。」と親が全く気づかなかったという事件が数多く報道されています。

  要するに私が言いたいのは、子どものすることを「くだらない。ばかばかしい。何をやっているんだ。」という大人の目で見てしまわずに、大人が子どもの世界まで降りていって、趣味や楽しみを共有する(共に楽しむ)ことが大切ではないかと思います。

  星の王子様という本の冒頭に“大人は、誰も、はじめは子どもだった”という名言がありますが、親になった今、このことを忘れずにいられる大人はとても少ない気がします。子どもを理解し、賢くよりよい子に育てるためには、まず「自分が子どもだったらこんなことをしてほしいな。」「こんなことは絶対に言ってほしくないな。」「あの時の父親からの励ましが、今の自分の活力の源になっているな。」等の“子どもから見た目”(子どもの視点)を持つことが大切だと思います。

 「親」という漢字は「木」の上に「立」って「見」ていると書きますが、たまには木から下りて、子どもと同じことを一緒にしてみることも必要です。ただしここで大切なのは「遊んであげる」「つきあってあげる」ではなく「共に楽しむ」(自分も楽しい)という関わり方が理想です。子どもがうるさくてしかたないから、面倒だけどたまには家庭サービスでもするか…。という意識では決して長続きはしませんよ。

 “子ども笑うな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの”


08:48 | 投票する | 投票数(139)
2021/06/15

今一度「子育て」を見直そう(監督から)

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 今一度「子育て」を見直そう   監督 齊藤 秀樹

  ある本に、「人間だけでなく動物は全て必ず子育てをする。しかし子育てに失敗するのは人間だけである。」と書いてありました。動物の子育ては実にシンプルです。それは「自分一人で生きていける(生き抜いていける)子に育てる」という明快な目標があるからです。それに対して人間は「ああなってほしい。こうなってほしい。欲をいえばここまで…。」と、子どもにいろいろなことを要求し、様々な働きかけをします。その結果、子育てに失敗し、時に取り返しのつかない人間を創り出してしまう場合もあります。

    今から30数年前の夏休みに、4才から7才の幼女4人を連続して殺害するという大事件が起こり日本中を震撼させました。当時まだ若手教師だった私は職業上、連日報道される犯人の生い立ちや性格、家族構成等の情報を興味深く見ていました。テレビや新聞の報道では、犯人像を「異常な人」「変人」…と扱っていましたが、私は反対に「こういうタイプの子は学校の中にもいるな。いやこれからもっと増えてくるような気がする。」と思っていました。予想通りその後も同じような悲惨な事件が度々起こり続けています。

 それではこれらの犯人像からその特徴的な性格を考えてみたいと思います。
「人とのつき合いができない」…子どもの頃から人との関わり方が下手で友人が少なかったそうです。人は多くの人と出会い、集団の中で生活することによって社会性や協調性を身につけ、社会的な常識やルールを知り、人に助けられたり助けたりする経験を通して思いやりの大切さを学び、自分を成長させていくものです。彼は同年代の友人が作れないために、幼い子や弱い子に異様な興味を示し、思い通りに従わせたいという歪んだ欲求が強くなってしまったようです。
 
「がまんができない」…人は大げんかをしたり、他人から自尊心を傷つけられたりすると、時に「殺してやりたいほど憎たらしい」と思うこともあるでしょう。しかし、普通の人間は例えそう思っても実行に移すことはありません。他の動物たちとは違い人間には「理性」があります。自分の感情を抑えることができます。ほしいものがあってもお金がなければがまんするし、おしっこがしたくてもトイレを探すまでがまんできます。裕福な家庭に生まれ、早くから自分の部屋を与えられ、何でもほしいものは買ってもらえた犯人は、がまんする経験が極端に少ない子だったようです。

「夢と現実の区別がつかない」…がまんすることとも関係が深いのですが、小さい頃はいろいろな空想をします。空を飛んでみたい。魔法が使えるようになりたい。宇宙人と会って話がしたい。…。しかし、年齢を重ねるうちに現実を知り、昔は不思議なことを考えたものだと懐かしむようになります。一連の犯人達の死体を切り刻む、焼いて食べてみる等の行為は、ロリコン漫画やホラー映画の世界にのめり込み、空想と現実、妄想と犯罪の区別がつかなくなってしまった典型だと思います。

    この事件はその8年後に起きた中学生による神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)とともに教育界に衝撃を与え、文科省はこれからの教育は学校だけでは限界がある。学校を週5日制にし、根本である家庭教育を今一度見直すべきだという答申を出しました。そして学校では、従来の知識偏重教育(知識を大量に詰め込む)から「生きる力の育成」(自ら考え、判断し、解決する力の育成)を重視した教育へと大きく方向変換するきっかけになった事件です。

    ズバリ言います。子育ての究極の目標は、オリンピック選手を育てることでも、東大に入学させることでもなく「我が子を決して犯罪者にしないこと」だと思います。

08:56 | 投票する | 投票数(151)
2021/06/08

今一度考えたい「学校安全」について(監督から)

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 今一度考えたい「学校安全」について  監督 齊藤 秀樹

    平成13年6月8日(金)午前10時過ぎごろ、犯人は開いていた学校の東門前に自動車を止め、出刃包丁と文化包丁の入った緑のビニール袋を持って学校の敷地内に入った。そして一階の教室に次々に侵入し、子どもたちを出刃包丁で切りつけ突き刺し、子ども8名が死亡し、子ども13名、教員2名の計15名が負傷した。これが今から20年前に起こった大阪教育大学付属池田小学校事件である。「まさか。小学校に侵入し、子どもを無差別に刺し殺すなんて。あり得ない。」当時の世間はあまりの衝撃に騒然となったものです
 この事件は学校の安全神話を一瞬のうちに崩壊させ、学校安全の在り方に多くの課題と教訓を残した事件でした。今回は丁度20年前に起こったこの事件の教訓を今一度検証し、学校の基本的な安全対策について書いていきたいと思います。

  池田小学校は、国立大学の付属校という特性から、遠方から通学している子どももあり、保護者は自動車で来校することも多く、東門は常に開いていました。犯人は裁判の公判の中で、「もし門が閉まっていたら入らなかったかもしれない。」という趣旨のことを言っていましたが、門が開いていたばかりに尊い8名の命が失われたといっても過言ではないかもしれません。今多くの学校では、常に日中は正門・裏門を全て閉めています。また自動車は事前に駐車券を申請するという形を取っている学校もあります。これに対して、「面倒だ。不親切だ。」と感じる方もいるでしょう。しかしこの対応は、子どもの安全を第一に考えた安心・安全な学校づくりのためであることを、今一度ご理解する必要があると思います。
 
    この事件では門から入って少しした所で、教員が犯人とすれ違っていました。しかし声をかけることなく犯人は校内に入ってきてしまいました。この事件以前の学校では来校者に声をかけると、疑っているようで失礼なのではないかという風潮がありました。しかしあの時に教員が一言「こんにちは。」「どちら様ですか。」「何かご用なら承りますが。」と声をかけていたら、この学校は外部の人にはガードが固い学校だと感じ、犯行を躊躇したかもしれません。現在多くの学校では、極力来校者には挨拶や声かけをするよう努めています。また保護者には必ず「入校証」をつけてもらい、授業参観や保護者会の会議以外は職員玄関からインターホンで職員室に連絡し、職員に用件を伝えてから校舎に入るようにお願いしています。用件を聞くことや声かけをすることは決して失礼なことではなく、安全に配慮している証拠であることをご理解ください。

    最後に子どもたちの被害を拡大させた最大の教訓は、学校に緊急時の連絡体制が整っていなかったということです。犯人が2年南組に侵入した時刻はちょうど2時間目が終わり、休み時間になったばかりの時で、この教室には担任は不在でした。次に隣の2年西組に入った時はまだ授業中で、担任は侵入に気づき教卓上の電話機を取ろうとしたものの、犯人を刺激すると思って受話器を置き、警察に通報するため事務室へ向かってしまいました。この事件は教員が誰もいない2つの教室の中で、子どもたちに避難誘導もないまま、次々と幼い子どもが犠牲になってしまったのです。更に2階、3階にいた教員はこの10分の間、誰もこの異変に気づいていなかったといいます。ここで問題なのは、不審者が侵入してきた時の担任の対応と連絡方法、全校体制での避難誘導の仕方、そして日常の避難訓練等の安全対策の在り方です。

    この事件以降、全国各地の学校では「不審者侵入時の対応マニュアル」が整備され、定期的な訓練が実施されるようになりました。不審者が侵入してきたらまず担任が笛を鳴らし、周囲の学級に非常事態を知らせると同時に子どもを守り避難誘導させる。そして同学年の担任が職員室へ不審者の侵入をインターホンで伝える。校内放送で全校に不審者侵入を知らせ、教職員は決められた役割分担にしたがって、侵入した学級へ急行する職員と児童の避難誘導に当たる職員に分かれ対応する。…。というマニュアルを作成し、定期的に訓練が実施されています。

 最後に、よく勘違いされるのですが、「開かれた学校づくり」とは、学校の透明性を高めるために、教育理念や教育方針を常に明確に示し、学校での様々な子どもの活動を授業参観やホームページ、学校だより等で常に公開し、学校教育への理解と支援を得ようというものであって、いつでも誰でも自由に学校に入れるよう門や玄関を開いておくというものではありません

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2021/06/01

「運動ができる子」は「勉強もできる」(監督から)

Tweet ThisSend to Facebook | by:スタッフ
 「運動ができる子」は「勉強もできる」 監督 齊藤 秀樹

   「運動神経がない」から運動は苦手、という話をよく聞きます。しかし「運動神経がない」人なんてこの世に誰一人いません。自転車は、小さい頃にがんばって練習して一度でもできるようになったら、その後は一生乗れます。
  しかし、子どもの頃に乗れるまでがんばらなかった人が、大人になって自転車の練習をしても、乗れるようになるには子どもの何倍も努力が必要になります。運動神経が鈍いのは生まれつきではなく、ある運動をできるまで練習したかどうか、つまり、できるようになるまでがんばったかどうかで決まります。決して遺伝で決まっているわけではありません。
 
  日本人は右手で文字を書く人が多いのですが、それはいつも右手で書いているから上手になったのです。ケガなどをして右手が使えなくなってしまった人たちの中には、努力して左手で上手にかけるようになった人がたくさんいます。
 できるようになるまでの練習時間が長いか短いか、回数が多いか少ないかは個人差がありますが、できるようになるまで最後まであきらめないでがんばれば、誰でも必ずできるようになります。
  
  一般に「器用だ」「上手だ」と言われている人は、子どもの頃に身体を使ういろいろな遊びを体験して、様々な運動のパターン(感覚)を獲得している人です。そのパターン(感覚)は、小さなプログラムになって「脳」に格納されます。それが多ければ多いほど、手先が器用だったり、巧みに身体を動かしたりすることができるようになります。また、将来新しい動きや技に初めて出会った時も、以前に獲得したパターンを加工すればすぐにできるようになります。
    このように子どもの頃に遊びや運動を通してたくさんの動きを脳に格納しておくことが、将来運動ができる子を育てます。
 
  ところで皆さんは「運動ができる子は勉強がダメ」一方、「勉強ができる子は運動がダメ」というイメージを持っていませんか。確かにスポーツばかりに夢中になって全然勉強しない子は、成績がよいはずはありません。しかし、前述したとおり「運動」と「脳」は実は深い関係があるのです。「勉強はアタマで、運動はカラダで」とか、「うちの子は頭が筋肉だから…」なんて思っている人が実はたくさんいます。
 しかし、ものを覚えたり、考えたりするのも、身体を器用に、巧みに動かしたりするのも、全て「脳」がするものなのです。
 
  最近の研究では、“運動ができる子どもの方が、できない子どもより学力が高い”という結果が数多く発表されています。
  ではなぜ運動すると勉強もできるようになるのでしょうか。一つは、運動すると「脳が活性化される」ということです。これを東京大学大学院の深代教授は「運脳神経」と呼んでいます。もう一つは、運動すると「活力」が育ちます。これは私が教育に一番大切な資質だと思っている能力のことです。もう何度も書いていますが、「活力」とは、自ら「わかるようになりたい。できるようになりたい。うまくなりたい。勝ちたい。」という「内面からのエネルギー」のことで、これがないと子どもは決して伸びません。一般には「やる気・モチベーション」と呼んでいるものです。

  白井アスレチックアカデミーは、これからも陸上競技を通して、脳の活性化を図り、活力を高め、「かしこく、たくましい子」を育てていきたいと思います。


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