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          齊藤 秀樹  監督

 
 

監督から

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2019/10/16new

「努力する」ということ(監督から)

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  「努力する」ということ   監督 齊藤 秀樹

  ノーベル賞受賞者で数学者の広中平祐氏はその著書の中で「自分で目標を決め、それに向かって努力するかしないかで、その結果に大きな違いが出る」と書いています。自ら目標を決めそれを達成するために最大限の努力をするってすばらしいことです。

  最近、教育の世界で「楽しい」という言葉がとてもよく使われるようになった気がします。「楽しい学校」「楽しい授業」「スポーツの楽しさ」…。確かに子どもたちに楽しさを味わわせるというのは大切なことだと思いますが、私が大切にしたいのは「楽しい」よりも「うれしい」(喜び)という体験です。よく「楽しさと喜び」という言い方もされますが、この両者には実は大きな違いがあります。
 
 「楽しい」という言葉は、自分の好きなことを、自分なりにやっているだけで「楽しい」のですが、「喜び」というのは「できた。やった。勝った。バンザイ。」という感動・感激体験のことです。そして、その気持ちを味わうには必ず“苦しくても、歯を食いしばって、精一杯努力した”という過程が入ります。即ち「努力」です。何かが成功したとき、何かをやりとげたときに、バンザイして飛び上がるほどうれしい。失敗したり、夢が叶わなかったときに、涙があふれて止まらないほど悔しいという心情は、その過程の中で精一杯の努力をしない子には決して味わうことのできない感情です

 私は日々の練習や試合の中で数多くの感動・感激体験を味わわせ、常に“やればできる”を信じて努力できる「活力ある子」を育てたいと思っています。
 何度も同じことを言いますが、子どもには無限の可能性があります。大きな夢や目標を持ち、それに向かって努力すれば叶わない夢なんかないし、これから先の人生をどうにでも創っていくことができるはずです。
 
  人生経験が豊富な私たち大人は、今までに多くの失敗や挫折を経験してきているため、つい「無理しなくていいのよ。」「あなたは今のままで十分よ。」という言い方を子どもにしがちですが、もしかすると、そのことが子どもの秘められた可能性を限定し、小さくまとめてしまっているのかもしれません。「無理だ」「不可能だ」「できっこない」「どうでもいい」なんていう言葉は、たかだか10年前後しか生きていない子どもたちが口にするには、あまりに悲しい、情けない言葉だと思います

  いつもとは言いませんが、時には本人の気分や意志に関係なく無理矢理にでも「やってみろ!」と尻を叩き、「もういいかな。」という我が子かわいさを少し我慢して「まだまだ!」と突き放してみることも必要ではないかと思っています。

   しかしよく考えると「努力」というのは、実はその子の能力には関係なく、一人ひとりの意識の中にかなりの差があるのも事実です。学校のマラソン大会の前に「先生、昨日グラウンドを3周も走ったよ。」と満足そうに言ってくる子もいれば、30周走っても「自分には、まだ努力が足りない。」と感じている子もいます。テスト前に教科書を一通り10分くらい読んできて、「今日のテスト勉強は完璧だ。」という子もいれば、2時間以上かけて、あらゆる問題を解いてからテストに臨む子もいます。このような大きな違いがあるにもかかわらず、本人は一様に「努力した」と同じ気持ちでいるのです


  子どもの可能性を信じることは大切なことですが、このことは必ずしも結果の平等を意味しないと思っています。自分自身が努力不足を自覚している子はまだよいとして、他人(先生や指導者)から見れば、どう見ても努力したとは思えないのに、本人は満足してしまっている子というのは、当然ですがいつまでたっても結果がついてきません。こういう子は一言で言えば“自分に対して甘い子”です。

  こういう子には、時に叱咤激励して、無理矢理にでも結果を出させ、自信を持たせてあげることで意識改革をさせることが必要だと思います。

 白井アスレチックアカデミーではこれからも、‘やればできる’を信じて、自分に甘えることなく、時には歯を食いしばって全力で努力し、「やった。できた。勝った。」という感動・感激体験をたくさん味わわせてあげられる、そんな魅力的なチームでありたいと思っています。


11:24 | 投票する | 投票数(17)
2019/09/10

大人は、誰も、はじめは、子どもだった(監督から)

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“大人は、誰も、はじめは、子どもだった” 監督 齊藤 秀樹 


    今回は久しぶりにこの記事を書いてみたいと思います。
  私は柏市という所に住んでいます。そして地元の柏にはたくさんの友人たちがいます。もちろん一番多いのは同業者である教員ですが、その他にも、会社員、市役所、医者、会計士、床屋、葬儀屋、焼き鳥屋、建設業、市場関係者…実に様々です。みんな30年来の友人たちですので、いつも「先生」とか「ひでき」と言って仲良くしてくれる大切な仲間たちです。


 そんな友人たちが集まると、よく「今の教育は」とか「今の子どもたちは」という話題が出てきます。そしていつもきまって「今の子どもたちは昔と違って…」「俺たちのガキのころには…」という話になってきます。例えば「いじめなんてものは、昔からどこにでもあったものだよ。弱虫で泣き虫の奴はよくいじめられていたもんだ。しかし今のいじめっていうのは、陰湿でジメジメしてしているし、加減というものがわかっていないんだ。その辺が昔とは違って悪いところだな。」なんて言って、眉をひそめて知ったような顔で教育論議に花を咲かせています。私はいつもこういう「昔と比べて、今の子どもたちはどうしようもない」的な発言を聞くと腹が立ってきます。
 それは自分が教員をやっているからというのではなく、子どもというのは大人が作った社会の中で生きているのであって、子どもの社会というものが大人の社会とは別に存在するわけではないと思っているからです。「今の子は、わがままで、我慢ができず、陰湿で、世の中をなめている」そんな子をつくったのは、間違いなく大人の責任であって、大人の世界と子どもの世界が別々にあると錯覚しているのは、大人が子どものことをあまりに知らなすぎる(無関心すぎる、放ったらかしすぎる)からに他ならないと思います。別の言い方をすると、大人は大人、子どもは子どもで生活し、両者の距離が離れすぎていると言えるかもしれません。


 皆さんは今子どもたちの間で流行っている遊びやテレビ番組、ゲームや漫画、子どもたちが集まる場所等をどれくらい知っていますか。数年前にある教育調査で「子どもの思いやり度調査」というのがあり、その中の項目に「好きなテレビをがまんして家族に譲ったことがありますか。」という質問に対して、多くの子が「自分の部屋にあるから経験がない。」と答えていました。家族の各自が自分の部屋にこもって、お互いの世界には干渉しないで過ごすという家庭も多いのではないでしょうか。最近、頻繁に起こっている青少年の凶悪な犯罪の中には、毎日生活を共にしているにもかかわらず、我が子の変化や歪んだ性癖に、「まさか家の子に限って…。」と親が全く気づかなかったという事件が数多く報道され、世間を驚かせています。


 要するに私が言いたいのは、子どものすることを「くだらない。ばかばかしい。何をやっているんだ。」という大人の目で見てしまわずに、大人が子どもの世界まで降りていって、趣味や楽しみを共有する(共に楽しむ)ことが大切ではないかと思います。


 星の王子様という本の冒頭に“大人は、誰も、はじめは子どもだった”という名言がありますが、親になった今、このことを忘れずにいられる大人はとても少ない気がします。子どもを理解し、賢くよりよい子に育てるためには、まず「自分が子どもだったらこんなことをしてほしいな。」「こんなことは絶対に言ってほしくないな。」「あの時の父親からの励ましが、今の自分の活力の源になっているな。」等の“子どもから見た目”(子どもの視点)を持つことだと思います。


 「親」という字は「木」の上に「立」って「見」ていると書きますが、たまには木から下りて、子どもと同じことを一緒にしてみることも必要です。ただしここで大切なのは「遊んであげる」ではなく「共に楽しむ」(自分も楽しい)という関わり方が理想です。 子どもがうるさくてしかたないから、面倒だけどたまには家庭サービスでもするか…。という意識では決して長続きはしませんよ。


 “子ども笑うな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの”


10:33 | 投票する | 投票数(37)
2019/07/23

「成績」について考える(監督から)

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 「成績」について考える       監督 齊藤 秀樹


  皆さんは、俗に「天才」と呼ばれている偉人たちの、子ども時代の学業成績を集めた「天才の通信簿」(プラウゼ著)という本をご存じでしょうか。この本を読むと「いったい学校時代の成績って何だったんだろう?」と考えさせられます。カントやヘーゲルといった人たちは、学校(子ども)時代から“神童”と呼ばれ天才の名をほしいままにしてきた人ですが、反対に学校時代は“落ちこぼれ”と言われ心配されていた人が、いつしか天才に化けたという例もたくさんあります。


   プラウゼによれば、エジソン、リンカーン、ノーベル、ルソーなどはその典型だそうです。その理由としては大きく2つが考えられます。1つ目は、あまりにスケールが大きすぎて、学校という規格に当てはまらず、教師もその才能を見抜けなかったこと。2つ目は、これらの人に共通することですが、自分の好きなこと(興味あること)にしか関心を示さず、得意・不得意があまりにもはっきりしすぎていたため、多くの学校が目指す「知・徳・体」のバランスのとれた優等生にはなれなかったことです。どちらにしても、日本にも「二十歳過ぎればただの人」ということわざがあるとおり、学生時代の成績が必ずしも将来とは関連しないというよい例だと思います。

   こういうことを書くと必ず「監督、それは違うんじゃないですか。今の時代は…」という反論が必ず起こります。こういう人たちは、おそらくみんな共通して“学歴”(良い成績を取ることがその子の優秀さの証であり、上級学校への進学を可能にする)という重みが、他の要素や可能性、これからの変化や成長というものを圧倒して、大きく意識の中にあるのでしょう。そして、あたかも成績の善し悪しがその子の“格付け”になり、良い成績を取れば未来は開かれるが、悪ければ全てが閉ざされてしまうがごとく考えてしまっているのかもしれません。


   さて、終業式に渡された(2学期制の学校はまだですね)通知表ですが、ここに記載されている「A」「B」「C」は、そのままその子の人間としての実体や価値ではありませんし、もちろん格付けでもありません。教科の方は、1学期の間(4月~7月)にどれだけの学習内容が目標に到達したかを示しています(到達度評価)。皆さんが子どもの頃の評価は相対評価といって、クラスの中での位置(上中下)を示していましたが、現在の評価は、先生が決めた基準(例えば、90%以上がA、60%以上がB、それ以下がCというように)がどこまで到達したか(理解できたか。身についたか。)を評価しますので、学習の定着度はわかりますが、クラス内での位置や順位を図るものではありません。
 また、行動面の評価はこの到達度評価に加えて個人内評価も加味されていますので、他人と比べてではなく、その子個人としての長所や成長、努力した項目に「○」がついています。

 さて今回、私が各家庭にお願いしたいのは、苦手な算数の思考力を叱るより、得意な体育のボールゲームでの活躍を認めてあげてほしい、うるさくて調子に乗りやすい性格を叱らずに、常に明るく前向きな面を褒めてほしいということです。子どもは日々変わり成長していくものですから、一番大切なのは「過去」ではなく「未来」です。どうぞ、せっかくの楽しい夏休み前に、子どもがやる気をなくし自信喪失状態になるようなことは、言いたくても腹の中でぐっとこらえ、「よくがんばった。2学期もまた新しいことに挑戦してがんばろう。」という温かい励ましをお願いします。 
 どうぞ、家族水入らずで充実した楽しい夏休みをお過ごしください。


09:11 | 投票する | 投票数(67)
2019/04/25

イチローに学ぶ(監督から)

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    イチローに学ぶ         校長 齊藤 秀樹
 さて今回は先日45歳で引退した、日本が誇る世界一のバッター「イチロー選手」(日米通算安打数4367本は世界一)について久しぶりに書いていきたいと思います。彼を新人時代から追い続け、その考え方や人物像について多くの著書を残している鹿屋体育大学の児玉教授の「イチロー思考」という著書内容を中心に、彼の成功の秘訣について考えてみたいと思います。
 今回は彼の持っている2つの力を中心に書いていきたいと思います。
【持続力】
  よくイチローを天才だという人がいますが、イチロー本人は「自分は天才ではないし、天才なんて言われたくない。」と言います。彼は小学校5年生の時から父親に連れられてバッティングセンターに毎日通い、45才の現在に至るまで血のにじむような努力を積み重ねてきました。本人曰く「自分はバットを振るのは好きではないが、振り続けていないとヒットが打てなくなるので、今でも毎日振り続けている」そうです。そもそも天才というのは“努力しないですごいことができる人”のことで、イチローは長年誰よりもたくさんバットを振り続けてきた「努力の人」ということになります。彼を見ていると「質より量を稼ぐこと(たくさんやること)が大切」だということ。「努力は裏切らない」ということ。そして何より「一番うまい人が一番努力したら誰もかなわない」ということがよくわかります。


【モチベーション(やる気)】
  1つのことに熱中するためには「モチベーション」(活力・やる気)を高め、維持し続けることが大切だと言われています。一般的にモチベーションを高めるためには「外発的動機」と「内発的動機」の2つがあります。

 「外発的動機」というのは、①「金銭報酬」(その結果に見合っただけの金銭がもらえること)、②「地位」(実力や結果に見合った地位や役職がもらえること)、③「責任」(役立つ存在として頼られ、責任ある仕事を与えられること)等が考えられます。


 それに対して「内発的動機」というのは、簡単にいうと「自己実現を図る」ことで、目標に向かって努力し、それを達成させる喜びのことです。イチローのモチベーションの根底は、何といってもこの「自己実現」へのこだわりです。完璧なバッターになりたいという思いから、彼は常に最高の自分を追い求めています。9年連続200本安打という大リーグ記録を塗り替え、通算最多安打数4358本という世界記録(ギネス記録)を更新し続けている今でも、「もっと上手くなりたい」と日々思っているそうです。


   ある研究によると、「モチベーション」と「目標設定」の間には相関関係があるそうで、簡単に達成できる低い目標や絶対に達成できそうもない高い目標を設定してしまうと、モチベーションは極端に落ちてしまいます。一番いいのは、もう少しがんばれば達成できそうな目標(60%達成可能)の時が、一番モチベーションが高くなるそうです。


 しかしイチローの場合は、達成可能な目標ではなく、遙かに届きそうもない高い目標設定することで、究極の自分を創り上げようとしています。私たち一般人にはなかなかできないことですが、“一流になるということは、高い遠くの目標を持ち続けること”なのかもしれません。

 さて、我が子を将来一流のアスリートや芸術家にしたいと考えている方は多いのではないでしょうか。「努力の大切さ」「自己実現へのこだわり」「目標を持つこと」等のイチローの生き方や考え方は私たちに大切なヒントを与えてくれています。
 イチロー選手、長年本当にお疲れ様でした。


09:05 | 投票する | 投票数(109)
2019/04/01

児童虐待②「母親の孤立」

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  児童虐待②「母親の孤立」      監督 齊藤 秀樹

 前回は児童虐待についてあえて書かせていただきました。今回はその背景と原因について考えていきたいと思います。


   誤解を恐れずにいえば、現在は「成人し結婚して子どもを持てば自然に親になることができる」時代ではない思います。これは何も、現在の親たちが急に理性を失ったわけでも、忍耐力が無くなったわけでも、人間性が劣っているわけでもありません。また反対に、昔の親たちが人間ができており、すばらしい人ばかりだったわけでもありません。
 この問題は、親個人の問題というよりは、もっと社会的な問題として考える必要があります。その中でも、虐待や無理難題要求を繰り返す親には実はある共通点があります。それは、身内や地域との人間関係が希薄な(人付き合いが少ない)親が多いという特徴です。そこで今回は「母親の孤立」という視点で考えてみたいと思います。


【祖父母との距離】
  かつては親と同居するのが普通の時代でした。実親だろうと義親だろうと、否応なく毎日顔を合わせる環境の中では、母親が孤立することはありませんでした。また婚姻が近隣同士なら同じ町内や市内に親が住んでいて、簡単に行き来できる距離にいました。しかし今の親は心理的に祖父母と距離をおきたがっており、干渉を受けたくないという人が増えています。かつては親は息子や娘の子育てに手を貸していたし、息子や娘もそれを歓迎していました。しかし今は「お母さんは黙っていて。私の子どもなんだから。」と言って、「自分が親だ」という立場で「子育てに口を出さないでほしい」と子どもを抱え込む親が増えています。我が子に対して責任感や愛情を持つことはよいことですが、子育て経験者(親学の先輩)からの助言や評価は本当に必要ないのでしょうか。


【父親の存在】
 ワークライフバランス(仕事と生活の調和)が推奨されて久しい。仕事だけでなく家庭に費やす時間や余裕を確保することが重要だといわれます。しかしサラリーマンが多い現在、実際には「一番は仕事、家庭は二の次」「家庭サービスをしている暇があれば、出勤して人一倍仕事をする」という高度成長時代から続く昔ながらの労働環境は変わっていないのではないかと感じます。このことは家庭内での「父親不在」を意味します。
  父親不在の陰で妻たちは孤立しています。両親から離れ、日中は子どもと過ごし、夜は夫の帰りを待つ。しかし夜遅く帰宅した夫は疲れ切っている。「仕事で疲れているから休ませてほしい」という言い分で、妻の一日の出来事を聞いたり、子育ての相談に乗る余裕はない。たまの休日にしか相手にしない子どもはかわいらしく、手間のかかる子どもには見えない。だから「そんなことは自分で何とかしろ」となってしまう。孤立した母親は子育ての苦労やストレスをますますため込んでしまうことになります。


【地域社会の崩壊】
 今の母親にとって「ご近所さん」とは、心理的にかなり距離の遠い存在です。顔を合わせても軽く会釈する程度で、立ち話もしない。まして自分のプライバシーの話などには決して踏み込まない。中には家は接しているのに名前や顔を知らない人もおり、離れて住んでいる昔の友人の方がよほど仲が良かったりする。若い母親たちはかつてのような密接な近所づきあいをしていない。近所に本音で語り合える相手、困ったときに相談できる相手、身近な心のオアシスは存在しないというのが現実ではないでしょうか。


   母親が孤立する原因はまだいくつも考えられますが、孤立することがどう子育てに影響するかを簡単に言うと、子どもとの「適切な距離を保てなくなる」ということです。孤立しているとストレスがたまったときの吐き出し口がない。昔は近所の人に子育ての相談に乗ってもらえた。親だって聖人ではないし、がまんできないこともある。そんな時、他人に話を聞いてもらうだけでずいぶん楽になる。また自分の子育てのやり方を他人に見てもらう機会がない。第三者の目で批判してもらったり、ほめてもらえない。更に「それはいいこと、悪いこと」といった客観的な評価は、子どもとの二者関係だけで生活していては生まれにくい。このように現在は、親としての成長を助けてくれる機会や可能性が、極端に減ってしまっているのが現実ではないかと思います。     完


16:01 | 投票する | 投票数(87)
2019/02/06

「虐待」問題を考える(監督から)

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  「虐待」問題を考える      監督 齊藤 秀樹

 つい先日、野田市の小学校に通っていた小学4年生(10歳)の女児が父親から虐待を受け、死亡するというショッキングな事件が起こりました。家庭内での子育ての問題ではありますが、未来ある尊い命が奪われるという現実に直面し、何とか救ってあげることはできなかったのかという悔しい思い出いっぱいです。 

 さて皆さんは「児童養護施設」という所が全国各地にあることを知っていますか。児童養護施設というのはそもそもは「孤児院」という呼称でした。つまり孤児(親が一人もいない子)が生活する施設でした。しかし現在、児童養護施設で暮らす子どものうち孤児は全体の1割弱しかいません。つまり9割以上の子には親がいます。なのになぜ子どもは親と一緒に生活することができないのでしょうか。子どもたちの入所理由で最も多いのが「児童虐待」です。親がいるのにその子の生命や安全が保証できない。だから親と離れて暮らすことを余儀なくされているのです。


 「親は子どもを守り保護する存在である」とは、ごく普通の当たり前の言葉ですが、これがどの親にも当てはまるとは限りません。なかには子どもの身の安全を脅かし危害を加える親たちがいます。これを「児童虐待」と言います。2017年末に児童相談所に届けられた全国の虐待件数は実に12万3千件に上り、過去最高を更新しました。


 児童虐待をいくつかの類型に分けてみると次の通りです。
①「身体的虐待」…子どもを殴ったり、蹴ったりする暴力行為。        
②「精神的虐待」…言葉による脅し、無視、子どもの前で家族に暴力(DV)をふるう。
③「性的虐待」…子どもへの性的行為、児童ポルノの被写体にする。
④「ネグレクト」…食事を与えない、家に閉じ込める、病院に連れて行かない等。


   この中で最も多いのが「身体的虐待」です。子どもが言うことを聞かないからといって、殴ったり、蹴ったり、たばこの火を押しつけたり、熱くなったヤカンやフライパンを押しつける、骨が折れるほど痛めつける、高い高いをして床や畳にわざと落とす…。我が子にここまでするのかと、目を覆いたくなるような惨事が多発しています。そして親たちは子どもがぐったりすると、ふと我に返って、後悔することも多いようです。

 身体的虐待の次に多いのが「ネグレクト」です。ネグレクトとは親として行うべき養育や監視をせずに、子どもを放ったらかしにしておくことです。子どもに食事を与えない、子どもを置いて長期に家を出てしまう等がこれに当たります。2004年に実話に基づいたYOU主演の映画『誰も知らない』が上映され、世間に衝撃を与えました。夫のいない母親は4人の子どもを抱えているが、あまり家には帰ってきません。たまに帰ってきたかと思うと、深夜遅く酔っぱらって、眠っている子を無理矢理起こし、母親とは思えないなれなれしさで子どもに接します。そして子どもにはアパートから一歩も出ないよう命じ、子どもたちはそれを従順に守り続けます。ある日母親は少しの金を置いて家を出てしまいます。ある男性と暮らすためです。子どもたちはいつか母親が帰ってくると信じながら、毎日を生き延びます。やがて水道が止められ、風呂にも入れず、水も飲めなくなってしまいます。しかし近所の公園で水を汲んでくることを覚え、残り少ないお金で買ったカップラーメンに公園の水を入れて皆で分けて食べる。そんな生活を続けていきました…。繰り返しますがこれは実話に基づく話です。


 今回紹介した親たちは、残念ながら現在一定数存在します。未熟で親と呼ぶに値しない大人がなぜ出現したのか。今後のこの紙面を借りて考えていきたいと思います。 


11:41 | 投票する | 投票数(129)
2018/12/20

「人はみんな違ってみんないい」監督から

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 「人はみんな違ってみんないい」
    … 「個性」について考える …  監督 齊藤 秀樹
 
  辞書によると『個性』とは「他の誰とも違う、その人特有の性質、個人差」とあります。私が古くからつきあっているアメリカ人の友人は、「私は小さい時からよく親に、『人と違う人になりなさい』とか『人に惑わされないで、しっかり自分というものを持ちなさい』と教わってきたよ。」と言います。このように欧米人にとっては当たり前のように教育されている「個性」(他人とは違う自分)というものが、どうも日本人にはうまく育てられないような気がしています。
 
   日本の家庭の中で「他人と違う人になれ」ということを重視して子育てをしている親がどのくらいいるでしょうか。おそらく多くの家庭は「皆と同じように」とか「皆と違わないように」と願っているはずです。日本人というのは昔から「他人との違いを認めることを嫌がる」傾向がある国民だと思います。まぁこれは同じ島国で生まれ、同じ肌の色、同じ髪の色、そして同じ言葉を使って長い間生活してきたのですから、「同じ」ことが普通であって、「違う」ことは普通ではないのでしょう。言い方を変えれば「同じ」であることが一番安心で居心地がいいのかもしれません


  しかしこのことが、「隣の子が塾へ行けば、家の子も行かせなきゃ。」と焦りだし、「小学5年生のお小遣いは、いくらくらいが普通でしょうか。」と平均を気にし、「家の子は他の子と比べてどうでしょう。」と心配する、“どの子も皆同じ意識”に通じています。


   また、「あの人はどうも個性的でねぇ。」とか「あの人の意見はいつも個性的すぎる。」等の言葉をよく耳にするように、『個性的な人間であること』が必ずしもよい評価を得られず、時には批判の対象にされていることからも明らかだと思います。


   一昔前の日本の教育は、先進国に追いつけ追い越せを共通の目標にして、徹底的に知識の詰め込み教育に力を入れてきました。この時代は、一定の価値観で同質の日本人を効率よく育てることが尊重され、それはそれで十分に機能を果たしてきたと思います。 しかし、これからの時代は国際化、情報化、科学技術の進展、価値観の多様化等の行き先不透明な激しい社会の変化に対して、的確な判断力と迅速な対応ができるよう、一人ひとりが自分で考え、判断し、解決、実践していく能力(これを「生きる力」といいます)がどうしても必要になります。


   さらに、今までの画一的、一斉的な教育の弊害として、深刻な「いじめ」が病理現象として全国各地の子どもたちに広がってしまったという問題があります。
  学校の子どもたちにはよく話しますが、ある本に「いじめられやすい子の4つのタイプ」という分類がありました。なんでも①目立ちたがり屋で自己主張の強い子。②おとなしく消極的で目立たない子。③勉強が苦手。運動が苦手。行動が遅い子。④何でもよくできて優秀な子。リーダー性のある子。だそうです。これを見るといじめの本質がとてもよくわかります。上記の4つのタイプの子を誰かに当てはめようとすれば、クラスにいる子全員が必ずどこかに当てはまります。即ち、いじめは今や「いつでも、どこでも、誰にでも起こりうる現象」ということです。


  私は自身の教育理念の柱として、“人との違いを認められる豊かな心の育成”(個性の尊重)を掲げています。最近のいじめに見られる「皆と違う面をからかいの材料にする」「人より優れた面を発揮すると妬まれる」という、皆が同じでなくてはいけないという形式的平等意識をなくし、一人ひとりが“その子らしさ”を思う存分発揮できる、そんな活力あふれる魅力的なスポーツクラブ(SAA)でありたいと願っています。


08:40 | 投票する | 投票数(112)
2018/10/19

運動ができる子は勉強もできる(監督から)

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   運動ができる子は勉強もできる   監督 齊藤 秀樹


   確か前にも書いたことがあるような気がしますが、今回はこの話題を紹介します。
  「運動神経がない」から運動は苦手、という話をよく聞きます。しかし「運動神経がない」人なんてこの世に誰一人いません。自転車は、小さい頃にがんばって練習して一度でもできるようになったら、その後は一生乗れます。
  しかし、子どもの頃に乗れるまでがんばらなかった人が、大人になって自転車の練習をしても、乗れるようになるには子どもの何倍も努力が必要になります。運動神経が鈍いのは生まれつきではなく、ある運動をできるまで練習したかどうか、つまり、できるようになるまでがんばったかどうかで決まります。決して遺伝で決まっているわけではありません。
 
  日本人は右手で文字を書く人が多いのですが、それはいつも右手で書いているから上手になったのです。ケガなどをして右手が使えなくなってしまった人たちの中には、努力して左手で上手にかけるようになった人がたくさんいます。
  できるようになるまでの練習時間が長いか短いか、回数が多いか少ないかは個人差がありますが、できるようになるまで最後まであきらめないでがんばれば、誰でも必ずできるようになります。
 
  一般に「器用だ」「上手だ」と言われている人は、子どもの頃に身体を使ういろいろな遊びを体験して、様々な運動のパターン(感覚)を獲得している人です。そのパターン(感覚)は、小さなプログラムになって「脳」に格納されます。それが多ければ多いほど、手先が器用だったり、巧みに身体を動かしたりすることができるようになります。また、将来新しい動きや技に初めて出会った時も、以前に獲得したパターンを加工すればすぐにできるようになります。
  このように子どもの頃に遊びや運動を通してたくさんの動きを脳に格納しておくことが、将来運動ができる子を育てます。
 
  ところで皆さんは「運動ができる子は勉強がダメ」一方、「勉強ができる子は運動がダメ」というイメージを持っていませんか。確かにスポーツばかりに夢中になって全然勉強しない子は、成績がよいはずはありません。しかし、前述したとおり「運動」と「脳」は実は深い関係があるのです。「勉強はアタマで、運動はカラダで」とか、「うちの子は頭が筋肉だから…」なんて思っている人がたくさんいます。
  しかし、ものを覚えたり、考えたりするのも、身体を器用に、巧みに動かしたりするのも、全て「脳」がするものなのです。
 
  ここ数年の研究では、“運動ができる子どもの方が、できない子どもより学力が高い”という結果が数多く発表されています。
  ではなぜ運動すると勉強もできるようになるのでしょうか。一つは、運動すると「脳が活性化される」ということです。私とよく書籍やDVDやテレビ出演をする東京大学大学院の深代教授は、これを「運脳神経」と呼んでいます。もう一つは、運動すると「活力」が育ちます。これは私が教育に一番大切な源だと思っている能力のことです。「活力」とは、自ら「わかるようになりたい。できるようになりたい。うまくなりたい。勝ちたい。」というエネルギーのことで、これがないと子どもは伸びません。一般には「やる気・意欲」と呼んでいるものです。

  SAAは、これからも陸上競技の基礎となる感覚づくりや動きづくり等を通して、脳の活性化を図り、活力を高め、「かしこく、たくましい子」を育てていきたいと思います。


14:38 | 投票する | 投票数(140)
2018/07/19

子どもを輝かせるには(監督)

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  子どもを輝かせるには     監督 齊藤 秀樹


  「子どもには無限の可能性がある」「子どもは誰でもよい芽を持っている」私は常々そう信じています。私たち指導者の仕事は、「子どもの中に秘められた可能性を、発見し、引き出し、伸ばし、輝かせること」だと思っています。
 
  さて以前にもこの監督欄で書いたと思いますが、私は教員2年目に佐倉市の学級対抗リレーで自分のクラスを男女ダブル優勝させてから、ずっと子どもたちに陸上競技を教えてきました。その中で今までに学校の体育主任時代や現在の陸上クラブ(白井アスレチックアカデミー)を通して、今回の男女リレー10名を含めて、総勢118名の子どもたちを千葉県チャンピオンに育て、全国大会に出場させてきました。
  そこで今回は、私が「子どもを伸ばし、輝かせる」ために常に大切にしていることを3つに絞って紹介したいと思います。


【活力ある子どもを育てること】
  走ることが得意でも、苦手でも、適切な指導を受ければ誰でも必ず足は速くなります。
そういう意味で私は教育の可能性を信じています。しかし、同じ指導を受けていても記録が飛躍的に伸びて、どんどん速くなっていく子もいれば、少しの向上で止まってしまう子もいるのは事実です。なぜでしょう。私は「活力」だと思っています。「活力」とは自分から「上手くなりたい。強くなりたい。できるようになりたい。勝ちたい。」という内面からのエネルギーのことです。指導者がどんなに熱心に丁寧に教えても、子ども自身に活力がないと決して伸びません。まず「活力ある子ども」を育てることが大切です。
  活力ある子を育てるには「やればできる」という体験をたくさん味わわせることです。「やった。できた。わかった。うまくなった。バンザイ。」という体験は、子どもに自信を与え、大きく変身、成長させます。


【夢を目標に変えること】
   ノーベル賞受賞者で数学者の広中平祐氏はその著書の中で「自分で目標を決め、それに向かって努力するかしないかで、その結果に大きな違いが出る」と書いています。
  よく「夢」と「希望」と「目標」を同じだと考えている人がいますが、実はこの三者には微妙な違いと順番があります。まず①「夢」(できたらいいな)を持つことです。そしてその「夢」に向かってがんばり続けることで、可能性が出てきます。可能性が出てくると②「希望」(できるかもしれない)という明かりが差し込み始めます。ただこの「希望」は未だ弱い望みなので、これを強い望み=目標に変えていかなくてはいけません。この希望を③「目標」(やればできる)に変えることができたときに、人はすごい力を出すことができます。この白井アスレチックアカデミーのリレーメンバーに選ばれる子どもたちは、常に千葉県大会で優勝し、全国大会に出場して、日本一になることを目標にして練習に取り組み、大会に望む子どもたちです。目標がもし「県大会に出場して入賞すること」だったらこんなに長年勝てなかったと思います。目標が実現できたときの感動・感激体験は、一生忘れられない宝物になります。


【素直な心を持つこと】 
   運動能力や技術は、一生懸命に練習を積み重ねていけばある程度は身につきます。しかし、伸びる子どもの一番の資質は実は「素直さ」だと思っています。素直で謙虚な気持ちで練習に臨める子は、多くの人から指導や助言をもらうことができます。またその指導や助言に対して、すぐに吸収し自分のものにすることができます。素直さは子どもを向上、成長させるとても大切な資質だと思います。



  女子リレー4年連続 13回目の全国大会出場



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2018/06/27

信じて、任せて、やらせてみる(監督から)

Tweet ThisSend to Facebook | by:スタッフ

 信じて、任せて、やらせてみる   監督 齊藤 秀樹
 
   あるハンバーガーショップに勤めだした子が、新人研修の中で、客が来たときの対応の仕
方を習ったそうです。まず元気な声で明るく「こんにちは。いらっしゃいませ。」続いて「お持ち帰りですか。ここでお召し上がりですか。」を確認する。…。


  ある日、一人の客が入ってきて「ハンバーガーを30個ください。」と言いました。するとその新人はとっさに「お持ち帰りですか。それともここでお召し上がりですか。」と言ったそうです。するとそれを聞いた客は呆れたように「30個もここで食べられるわけないだろう。」と激怒したという笑い話です。

  一般にこの新人のような子を「指示待ち人間」とか「マニュアル人間」と呼びます。この人たちは、指示されたことは、その通りきちっとやりますが、自分で考えたり、場に応じて柔軟に判断することができないというのが特長です。


  今からもう30年位前のことですが、小学1年生に自分たちで切符を買わせて、電車に乗って校外学習に連れて行こうという行事がありました。
  駅で電車を待っているときに、あるベテランの学年主任の先生から「電車が来たら2列にしっかり並んで乗りなさい。」という指示がありました。間もなく駅に電車が到着し、何両かに分かれて並んでいた子どもたちが一斉に電車に乗り込みました。すると隣のドアの入り口付近から「先生もう乗れません。」という叫び声が聞こえてきました。「こんなに空いているのにおかしいな」と近づいてみると驚きの光景を目の当たりにしました。なんと!先頭の子は反対側のドアにピッタリと顔を押しつけられ、その後ろにまっすぐ並んだ子どもたちが押し合いながらくっついていて、最後の子が「入れない。入れない。」と泣きべそをかいて叫んでいたのです。「電車の中に入ったら横に広がっていいのよ。」を先生が言わなかったために起こった大事件でした。


  私はこの事件を研修会や保護者会等でよく先生方や保護者に話しますが、その反応は「なんてかわいらしい。素直でいい子たちなの。」と微笑ましく感じている方々が多いような印象があります。
  しかし、私たちは今までの子育てや教育の中で、「言われたことをきちんとやる子がいい子」という教育を繰り返していくうちに、子どもたちから何か大切なものを奪ってしまっているような気がしてなりません。そして大人になっても、前述の店員のような指示待ち、マニュアル人間を数多く育ててきてしまったのではないでしょうか。


   子どもたちに「何でも好きにやってごらん。」と“自由”を与えてみると、最初は「何でも好きなことができる。わーい。」と喜びますが(解放の自由)、そのうち「自分の責任で、考え、判断し、行動しなければならないのは大変だ。」ということに気づいてきます。体験を通して「自分で決めてやったことは、全て自分の責任」という‘自由と自己責任’の関係がわかってきます。


   「先生や親の言うことを聞く子」はいい子です。しかし「先生や親の言うことしかできない子」「言われなければやらない子」はダメな子だと思います。


    「いつまでもあると思うな親と金」という格言ではありませんが、教育の究極の目標は“子どもの自立”です。子どもを自立させるためには‘自分で考え、判断し、決定していく力’=“生きる力”を育てなければなりません。
   「信じて、任せて、やらせてみる」という体験を子どものころから日々実践し、身につけていくことは、子どもの将来にとってとても重要なことだと思います。


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