「友だち」について考える 監督 齊藤 秀樹
マザーテレサは「人間にとって最も不幸なことは、貧しいことでも、病気になることでも、お腹を空かせて死ぬことでもない。誰からも相手にされないこと。みんなから捨てられ寂しい思いをすることだ。」と言っています。
昨年ある教え子のお母さんから、子どもが学校でいじめを受けて困っているという相談を受けました。何でも他の子には言わないと約束したことを、ついうっかりしゃべってしまって、それ以降仲の良かった友人たちから無視され、仲間はずれになっているというのです。食事ものどを通らず、毎朝「学校に行きたくない」と大泣きする毎日で、とても困っているという話でした。原因を作ったのは確かに本人ですが、もうやってしまったことなので今更悔やんでも仕方ありません。
しかし端から聞いていると、そんなに嫌で、そんな友人たちなら、こちらから相手にせず、グループを抜けて、新しい友達を作ればいいと思うのですが、本人はどうしてもそういう気にはなれないらしいのです。つまり、子どもにとって友だちというのはかくも大切なものであって、それがたとえ自分に対して被害を及ぼしてこようとも、友だち関係を失ってしまうことはそれ以上に耐え難いことなのでしょう。
そういえば、昔読んだある本の中に「日本人の子ども観」という章があり、その中に“七つ前は神のうち”という言葉がありました。私たち日本人は“子どもは純粋で汚れ無き存在”という考えの基、「子どものやったことだから」という一言で、たいていのことは大目に見て許してしまっているところがあるのではないかと思います。
しかし実はこういう「性善説的な子ども観」の中に大きな落とし穴が潜んでいることが多いものです。私は昔から子どもが大好きで、かれこれ40年以上も教育関係の仕事を続け、休日もたくさんの子どもたちを集めて陸上クラブ(SAA)を主催していますが、そんな私から見ても、子どもというのは、決して純真で汚れなき存在ではなく、けっこう平気で残酷なことを言ったりしたりするものです。
先日ある高齢者の方(Aさん)から貴重な体験談を伺う機会がありました。Aさんが中学校に通っていた終戦後間もない時代の話です。誰もが一様に貧乏だった世の中で、友人の一人にいわゆる良い家のお坊ちゃんがいて、その子はいつも弁当にサンドウィッチを持ってきていたそうです。Aさんはそれがうらやましくてしかたなかったそうですが、ある日そんな息子の願いをいつも聞いていた母親が、イチゴジャム(粒のないのりみたいなもの)のついたサンドウィッチを持たせてくれたことがあるそうです。その日の昼食時、その友人がAさんのサンドウィッチを見て「俺のと交換しよう。」と言ってきたので一切れ取りかえたのですが、なんとその友人は「なんだジャムか。」と言って、一口も食べずにゴミ箱に捨ててしまったそうです。Aさんがもらったサンドウィッチにはコンビーフのような肉がぎっしり詰まっていたそうです。この時代にこんなものを食べられる人がいるのかと強烈なショックを受けたそうです。
考えてみると友だちというのは実に残酷なことを言ったりしたりするものです。親が子どもに知らせないよう努力してきた「人生の真実」(Aさんの場合は「貧富の差」)を一瞬のうちに壊し明らかにしてしまいます。
学校という所は、別々の個性を持った子どもたちが一カ所に集まり、集団生活の中で多くの時間や空間を過ごす場所です。ですから、そこでは度々弱肉強食の争いが起こります。うちの子は集団生活が苦手だからという理由で、毎日家の中に閉じ込めて、親の庇護のもと温室で育てておくわけにはいかないのですから、集団での様々な活動の中で、人との関わり方を学び、子ども自身がたくましく心豊かに成長していくしかありません。その支援者として大切な体験を提供し、時に人生を教えてくれるのが友だちという存在です。
そういう意味で、友だちとは極めて大切な成長への援助者だと言えるかもしれません。