「個性」について考える 監督 齊藤 秀樹
辞書によると『個性』とは「他の誰とも違う、その人特有の性質、個人差」とあります。私が古くからつきあっているアメリカ人の友人は、「私は小さい時からよく親に、『人と違う人になりなさい』とか『人に惑わされないで、しっかり自分というものを持ちなさい』と教わってきたよ。」と言います。このように欧米人にとっては当たり前のように教育されている「個性」(他人とは違う自分)というものが、どうも日本人にはうまく育てられないような気がしています。
日本の家庭の中で「他人と違う人になれ」ということを重視して子育てをしている親がどのくらいいるでしょうか。おそらく多くの家庭は「皆と同じように」とか「皆と違わないように」と願っているはずです。日本人というのは昔から「他人との違いを認めることを嫌がる」傾向がある国民だと思います。まぁこれは同じ島国で生まれ、同じ肌の色、同じ髪の色、そして同じ言葉を使って長い間生活してきたのですから、「同じ」ことが普通であって、「違う」ことは普通ではないのでしょう。言い方を変えれば「同じ」であることが一番安心で居心地がいいのかもしれません。
しかしこのことが、「隣の子が塾へ行けば、家の子も行かせなきゃ。」と焦りだし、「小学5年生のお小遣いは、いくらくらいが普通でしょうか。」と平均を気にし、「家の子は他の子と比べてどうでしょう。」と心配する、“どの子も皆同じ意識”に通じています。
また、「あの人はどうも個性的でねぇ。」とか「あの人の意見はいつも個性的すぎる。」等の言葉をよく耳にするように、『個性的な人間であること』が必ずしもよい評価を得られず、時には批判の対象にされていることからも明らかだと思います。
一昔前の日本の教育は、先進国に追いつけ追い越せを共通の目標にして、徹底的に知識の詰め込み教育に力を入れてきました。その時代では、一定の価値観で同質の日本人を効率よく育てることが尊重され、それはそれで十分に機能を果たしてきたと思います。しかし、これからの時代は国際化、情報化、科学技術の進展、価値観の多様化等の行き先不透明な激しい社会の変化に対して、的確な判断力と迅速な対応ができるよう、一人ひとりが自分で考え、判断し、解決、実践していく能力(これを「生きる力」といいます)がどうしても必要になります。
さらに、今までの画一的、一斉的な教育の弊害として、深刻な「いじめ」が病理現象として全国各地の子どもたちに広がってしまったという問題があります。
私がよく学校の全校朝会で子どもたちに話したことを紹介します。ある本に「いじめられやすい子の4つのタイプ」という分類がありました。なんでも①目立ちたがり屋で自己主張の強い子。②おとなしく消極的で目立たない子。③勉強が苦手。運動が苦手。行動が遅い子。④何でもよくできて優秀な子。リーダー性のある子。だそうです。これを見るといじめの本質がとてもよくわかります。上記の4つのタイプの子を誰かに当てはめようとすれば、クラスにいる子全員が必ずどこかに当てはまります。即ち、いじめは今や「いつでも、どこでも、誰にでも起こりうる現象」ということです。
私はSAAの教育目標の柱として、“人との違いを認められる豊かな心の育成”(個性の尊重)を掲げています。最近のいじめに見られる「皆と違う面をからかいの材料にする」「人より優れた面を発揮すると妬まれる」という、皆が同じでなくてはいけないという形式的平等意識をなくし、一人ひとりが、その子らしさを思う存分発揮できる、そんな活力あふれる魅力的な陸上クラブでありたいと願っています。