「成績」について考える 監督 齊藤 秀樹
各学校では前期が終了し、修了式の後「通知表」が配られられたことと思います。そこで今回はお馴染みのこの記事を紹介したいと思います、
皆さんは、俗に「天才」と呼ばれている偉人たちの、子ども時代の学業成績を集めた「天才の通信簿」(プラウゼ著)という本をご存じでしょうか。この本を読むと「いったい学校時代の成績って何だったんだろう?」と考えさせられます。カントやヘーゲルといった人たちは、学校(子ども)時代から“神童”と呼ばれ天才の名をほしいままにしてきた人ですが、反対に学校時代は“落ちこぼれ”と言われ心配されていた人が、いつしか天才に化けたという例もたくさんあります。
プラウゼによれば、エジソン、リンカーン、ノーベル、ルソーなどはその典型だそうです。その理由としては大きく2つが考えられます。1つ目は、あまりにスケールが大きすぎて、学校という規格に当てはまらず、教師もその才能を見抜けなかったこと。2つ目は、これらの人に共通することですが、自分の好きなこと(興味あること)にしか関心を示さず、得意・不得意があまりにもはっきりしすぎていたため、多くの学校が目指す「知・徳・体」のバランスのとれた優等生にはなれなかったことです。どちらにしても、日本にも「二十歳過ぎればただの人」ということわざがあるとおり、学生時代の成績が必ずしも将来とは関連しないというよい例だと思います。
こういうことを書くと必ず「監督、それは違うんじゃないですか。今の時代は…」という反論が必ず起こります。こういう人たちは、おそらくみんな共通して“学歴”(良い成績を取ることがその子の優秀さの証であり、上級学校への進学を可能にする)という重みが、他の要素や可能性、これからの変容や成長というものを圧倒して、大きく意識の中にあるのでしょう。そして、あたかも成績の善し悪しがその子の“格付け”になり、良い成績を取れば未来は開かれるが、悪ければ全てが閉ざされてしまうがごとく考えてしまっているのかもしれません。
さて、先日学校から渡された通知表ですが、ここに記載されている「A」「B」「C」は、そのままその子の人間としての実体や価値ではありませんし、もちろん格付けでもありません。教科の方は、前期の間(4月~9月)にどれだけの学習内容が目標に到達したかを示しています(到達度評価)。一昔前の評価は相対評価といって、クラスの中での位置(上中下)を示していましたが、現在の評価は、先生が決めた基準(例えば、90%以上がA、60%以上がB、それ以下がCというように)がどこまで到達したか(理解できたか。身についたか。)を評価しますので、学習の定着度はわかりますが、クラス内での位置や順位を図るものではありません。
また、行動面の評価はこの到達度評価に加えて個人内評価も加味されていますので、他人と比べてではなく、その子個人としての長所や成長、努力した項目に「○」がついています。
さて今回、私が各家庭にお願いしたいのは、苦手な算数の思考力を叱るより、得意な体育のボールゲームでの活躍を認めてあげてほしい、うるさくて調子に乗りやすい性格を叱らずに、常に明るく前向きな面を褒めてほしいということです。子どもは日々変わり成長していくものですから、一番大切なのは「過去」ではなく「未来」です。どうぞ、せっかくの楽しい後期の前に、子どもがやる気をなくし自信喪失状態になるようなことは、言いたくても腹の中でぐっとこらえ、「よくがんばった。後期もまた新しいことに挑戦してがんばろう。」という温かい励ましをお願いします。
どうぞ、家族水入らずで充実した実りの秋をお過ごしください。 完