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          齊藤 秀樹  監督

 
 

監督から

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2024/11/22new

「命の原点」を伝えたい(監督から)

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 「命の原点」を伝えたい  監督 齊藤 秀樹
 
 さて今回は、私が学級担任時代に毎年必ず行っていた「生命の学習」について皆さんにお伝えしたいと思います。是非子どもに話してあげてください。

 「みんなの命が今ここにあるのはどうして。」「お父さん、お母さんが産んでくれたから。」「じゃあお母さんの命は。」「おじいちゃん、おばあちゃんがいたから。」…このように命をさかのぼっていくと最後には「人間の命の始まりは?」にぶつかります。そこで考古学で明らかにされている人間の命の始まりが、今から二千万年前の猿人であることを教えました。次に自分の生きてきた10年と人間の歴史を分かりやすく比べるために、二千万年を2mとすると10年は0.001㎜ということになり、砂つぶの1/10ほどしかないことを教えました。この針でつついた位の長さから考えると、人間は現在に至るまで、生まれ、育ち、死んでいくという繰り返しを数限りなく重ね、その上に今の自分がいることを、命はずっとつながっていることを伝えました。

 次に「自分の歴史をさかのぼろう」ということで、現在4年生、「3年生の頃は何があった。」「1年生の頃は」「幼稚園、保育園の頃は」…を思い出して振り返らせました。「車にはねられそうになった」「ブランコから落ちて大ケガをした」「おたふく風邪の時高熱が出てすごく苦しかった」…今まで様々なことがあったでしょう。もしその時に命を失っていたら、今の自分はここにいなかったことを、お父さんやお母さん、周りの人々がみんなを大切にし、みんなの命を必死で守ってきてくれたことを話しました。

 では「みんな命が誕生したのはいつ?」と聞くと、「10年前の誕生日」と誰かが答えたので、すかさず「それは違う」と否定し、「みんなの命は誕生日の前にも、お母さんのお腹の中で10ヶ月間あったんだよ。」と教えました。みんなが10ヶ月入っていたこの部屋を「子宮」と言い、「子どもの宮殿」という名前が付いています。、ふわふわしたとても居心地のいい部屋だそうです。その中で2ヶ月目にはたったの2.5㎝、5ヶ月目でやっと20㎝、10ヶ月たつと身長約50㎝、体重3千グラム位に育って、やっとお母さんのお腹から出てきたんだよ。その日がみんなの誕生日ですと教えました。

 女性の体というのはとても不思議なんだけど、普段は指が1本か2本入るかどうかの狭い子宮の出口だけど、赤ちゃんを産むときにはちゃんと開くんだそうです。でもこんな頭が通るくらい大きくなるんだからやっぱり痛くて大変なんだって。お母さんはみんなが出てくる頃になると「陣痛」っていう痛みがきて、それが30分おきとか、10分おき、3分おきと間隔が縮まって、もうじき生まれるっていう時には、お母さんは体中が壊れるんじゃないかと思うくらいの痛みに耐えて、これ以上出せないくらいの力を入れて、みんなが完全に出てくるまでがんばるんです。そしてこの苦しみを乗り越えてようやく生まれた赤ちゃんの顔を見たときは、言葉にできないくらいの感動を味わって涙を流して喜ぶそうです。みんなはそうやって生まれてきたのです。今度お母さんにその時のことを聞いてみてください。という話をしました。

 現在の子どもたちは、おじいちゃんおばあちゃんと暮らさなくなり、兄弟が減って赤ちゃんを知らず、人間の生や死に鈍感になっています。自然の中での体験が減り、住宅事情からペットを飼う自由も奪われてしまいました。同時に無差別殺人事件や自殺、親殺しや子殺し(虐待)等のニュース、世界中ではテロや紛争が相変わらず続いています。 こんな時代だからこそ、かけがえのない命、不思議ですばらしい命を伝える必要があると思います。そして命をダメにするものに対して、勇気を持って闘い、自分の命、他人の命を大切にできる、そんな人間に育ってほしいと心から願っています。

09:35 | 投票する | 投票数(23)
2024/11/15

自分で考え、判断し、決定する力(監督から)

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自分で考え、判断し、決定する力 監督 齊藤秀樹

   「お母さん、今日雨降るかな。」「そうね。天気予報でもそう言っていたし、この様子だときっと降るから、傘を持って行きなさい。」「はーい。」ある朝の玄関先での会話です。ところがその日は予想に反して一滴の雨も降りませんでした。学期末で荷物が多い上、傘まで持って帰ってきた息子は、開口一番「何だよ。雨なんか降らなかったじゃないか。お母さんの嘘つき。」と言ってすごい勢いでプンプン怒っています。

    実はお母さんの天気予報は結構よく当たり、家族もそれを認めていて、時折それを無視して出勤してしまう父親が、夜の帰宅時になると「傘がないので迎えにきてくれ。」と電話をかけてくるたびに、母親から小言をもらっている姿を子どもたちもよく見ていました。そんな母親の口癖は「いい。お母さんの言う通りにしておけば間違いないのよ。」でした。

 さて、このように‘母親の判断こそが正しい’という経験が続けば、子どもは“自分で考え、判断し、決定する”ことをやめてしまいます。何でも母親に尋ね、それに従っていた方が楽だし、たまに不都合が起こってもそれは全て母親のせいにしてしまえばよいのです。即ち、子どもは結果を見て、その責任を引き受けなくてよいのです。子どもは有能な母親に依存し、ほとんど失敗や後悔を味わうことなしに、子ども時代を過ごすことができます。
 しかし、当然そういう育ち方をしていると、その子は母親なしでは生きていけない、とても不安な子になります。そして、何かにつけて思い通りにならないことを「誰かのせい」にする被害者意識の強い子にもなります。

 考えてみれば人生というのは、“判断”の連続です。今日傘を持って家を出るかどうかも1つの判断です。何かを決めるということは、同時に何かを捨てることです。時に切り捨てたものの大きさに悔やむこともあるでしょう。しかし、子どもたちは日々の生活の中で小さな判断を繰り返すことによって“自分で考え、判断し、決定する”ことの難しさを学びます。これは同時に、自分で下した判断の結果に直面し、それを「自分の責任」として引き受けなくてはならないということも学ぶのです。思い通りにいかない人生を、どうやって生き抜いていけばよいのかという力を身につけていくのです。
 これはとても厳しい学習です。子ども自身が判断し、決定するまでじっくり待ち、そこでどんな結果が出ようとも、それを責めたり叱ったりすることなく見守れる大人の存在なくしてできないことです。

 保護者として、子どもたちから慕われ頼られる存在であることはすばらしいことです。でも、それに満足していると、いつしか知らぬ間に、子どもを自分の思い通りにする「あやつり人形」にしてしまっていることがあります。今育てなければいけない自主性や責任感という大切な芽を摘んでしまってはいけないと思います。
 
  「いつまでも あると思うな 親と金」という言葉があります。教育の究極の目標は、「生きる力の育成」です。「生きる力」とはどんなに時代が変化し、どんな社会が来ようとも、自分のことは“自分で考え、判断し、決定していく”という力のことです。生きる力を身につけるには、子どもの頃から、日常生活の中で日々実践し、積み重ねていくことが大切だと思います。

07:34 | 投票する | 投票数(53)
2024/11/09

学校・家庭・地域の連携(監督から)

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 学校・家庭・地域の連  監督 齊藤秀樹
 最近、各学校のホームページを見ていると、保護者の方々が学校に集まり、学校美化作業に汗を流している記事と写真が良く載っています。学校によって協力体制に差はあるものの皆さんお疲れ様です。そして子どもが通う学校のためにありがとうございます。
 さて、子どもの教育は「家庭」「学校」「地域」によって営まれるものです。ですから学校というのは子どもたちを教え育てる主たる場所ではありますが、当然全てではありません。

 外国(欧米)の学校では、ずいぶん前から原則として、「勉強は学校」「行事やスポーツ活動は地域」「しつけは家庭」という互いの役割の分化がしっかりとできているそうです。例えば、勉強のことは学校に任せているのだから、教科書は学校へ置いておき、授業参観などもあまりやらず、反対にスポーツ大会(日本では運動会)や遠足、自然教室などは地域が中心になって行うそうです。

  では日本はどうでしょう。家庭学習は学校の先生が宿題として出す。キップの買い方や電車の乗り方を生活科で教える。遊ぶ友だちがいなければ先生が中に入って何とかしてあげる。万引きや喫煙などの非行(問題行動)が起こると、先生が飛んでいって謝罪し、指導する。…。そうした結果、学校教育の中に遊びや体験活動の要素が加わり、問題行動が起こらないように生徒指導(しつけ)がどんどん厳しくなっていく。反対に、地域にはたくさんの学習塾ができて、多くの子が放課後や休日には塾へ通い勉強する。という役割の混同が起きています。

 ずばり言わせてもらうと「学校は病院ではない。まして警察でも裁判所でもない。学校は勉強を教えるところだ。」と思います。歴史的な学校の成り立ち(寺子屋~学校)から見てもこれは確かなことだと思います。
    しかし、そうは言っても、日本の学校には昔から学校行事や部活動などの、日本独特の価値ある活動がたくさんあります。また、同年代の子どもたちが毎日集まり、多くの時間、空間を共同体として過ごす場は、現実的に学校しかありませんので、やはり人間関係づくりや規範意識(約束やルールは必ず守る)などの社会性を育てるのも、学校教育の大きな役割だと思っています。
 要するに私が言いたいのは、日本も欧米のように役割を明確に分離すべきだということではありません。もっともっと学校と家庭・地域が深く結びつき、交流し、皆で知恵を出し合って、協力しながら、いっしょになって子どもたちを育てていこうということです。

    そんな中、親子で過ごす時間を作り、日々のコミュニケーションを大切にしいる素敵な家族、地域で社会体育(スポーツクラブ)を指導し、子どもたちの体力づくりや仲間づくりに毎週汗を流してくれているお父さん、読み聞かせや除草作業、交通安全指導などのボランティアに率先して参加してくれるお母さん、保護者会や家庭教育学級の役員さん、毎日防犯パトロールを続け子どもの安全を見守ってくれている高齢者の皆さん、本当にありがとうございます。

    皆さんの力で、次代を担う大切な宝物である子どもたちを共に育てていきましょう。
 これからもSAAは、「子どもたちが誇れるクラブ」「保護者から感謝されるクラブ」「地域から愛されるクラブ」を目指して、常に教育方針を明確に示し、子どもたちの活動を公開し、皆様からの意見や評価を取り入れながら、信頼される陸上クラブづくりを推進していきたいと思います。どうぞこれからもSAAの応援団として、多大なるご支援ご協力をお願いいたします。


16:40 | 投票する | 投票数(74)
2024/10/31

昨日の自分と勝負せよ(監督から)

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 昨日の自分と勝負せよ  監督 齊藤 秀樹
  
 走ることが得意な子と、苦手な子がいるのは事実です。同じように習字やリコーダー演奏にも上手・下手があるでしょう。しかし、毛筆(字)が下手な子でも適切な指導を受け、何度も練習していけば、まずまずの書き初めは書けるし、リコーダーも吹けるようになると思います。そういう意味で私は「教育の可能性」を信じています。

 しかしそれと同時に、走ることが得意な子が一流の指導者に巡り会えばより一層速くなるし、楽器演奏も飛躍的に伸びるでしょう。したがって100人の子が皆それぞれに適切な指導を受ければ、遅い子でも速くなることは事実ですが、同時に速い子はより一層速さを増すわけですから、結果的に走力差は開いてしまうのです。
 つまり“「教育の可能性を信じる」ことは、必ずしも結果において「平等」を意味するものではない”ということです。

  しかしよく考えてみると、「できる」「できない」とか、「得意」「不得意」という意識は、全て“平均”とか“みんな”との比較から生まれます。みんなよりできることが「できる」であり、みんなよりできないことが「できない」なのです。

   この後、各学校ではマラソン大会が予定されていますが、勝利や順位を目標にがんばる子どもたちがいてもいいし、それとは別に“他人と比べて自分がどうかではなく、自分が昨日よりどれだけ伸び成長したかに挑戦する”という目標で、自分の持てる力を精一杯発揮してがんばることも大切です。1ヶ月前のタイムをどれだけ縮められたかに挑戦し、そのタイム差が大きければ大きいほど、自分なりに努力しがんばったということになります。
 運動だけでなく、絵画でも歌でも計算でも料理でも何でもいいです。人は誰でもその子にしかない良さが必ずあるはずです。皆が全て「同じ」である必要はないし、そんなことはかえっておかしいことです。

 何度も同じことを書きますが、私たちは「一人ひとりが持っている秘められた可能性を発見し、引き出し、伸ばし、輝かせてあげたい」と同時に、「人との違いを認められる心の広さ、強さ、豊かさを身につけてほしい」と願っています。

 大会に出場して学校の代表として活躍した子や、絵画や習字ですばらしい賞をもらった子に対して、決して妬んだり、陰口を言ったりしない子どもたち、「よし、ぼくは今度○○で活躍するぞ」という子を育てることが、学校から陰湿な「いじめ」を撲滅する最も重要な“心の教育”につながると思います。

 学校で行われる行事には、いつもたくさんの保護者の皆様に参観・応援をいただきありがとうございます。参観の度に、全力を尽くして最後まであきらめずにがんばる「活力あるSAAっ子」の姿をたくさん見ていただいていることと思います。

 「教育の可能性は必ずしも結果の平等を意味しない」のですから、その子なりの努力や成長を認め、褒めるという視点や評価はとても大切なことだと思います。
  
 勝利という目標に向かって、精一杯の努力をすることと、自分自身の成長に着目して、努力することのすばらしさを味わうことの両面を、これからも大切にしてほしいと思います。


15:12 | 投票する | 投票数(114)
2024/10/25

「友だち」について考える(監督から)

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 「友だち」について考える 監督 齊藤 秀樹
  
 マザーテレサは「人間にとって最も不幸なことは、貧しいことでも、病気になることでも、お腹を空かせて死ぬことでもない。誰からも相手にされないこと。みんなから捨てられ寂しい思いをすることだ。」と言っています。

    昨年ある教え子のお母さんから、子どもが学校でいじめを受けて困っているという相談を受けました。何でも他の子には言わないと約束したことを、ついうっかりしゃべってしまって、それ以降仲の良かった友人たちから無視され、仲間はずれになっているというのです。食事ものどを通らず、毎朝「学校に行きたくない」と大泣きする毎日で、とても困っているという話でした。原因を作ったのは確かに本人ですが、もうやってしまったことなので今更悔やんでも仕方ありません。
 しかし端から聞いていると、そんなに嫌で、そんな友人たちなら、こちらから相手にせず、グループを抜けて、新しい友達を作ればいいと思うのですが、本人はどうしてもそういう気にはなれないらしいのです。つまり、子どもにとって友だちというのはかくも大切なものであって、それがたとえ自分に対して被害を及ぼしてこようとも、友だち関係を失ってしまうことはそれ以上に耐え難いことなのでしょう。

 そういえば、昔読んだある本の中に「日本人の子ども観」という章があり、その中に“七つ前は神のうち”という言葉がありました。私たち日本人は“子どもは純粋で汚れ無き存在”という考えの基、「子どものやったことだから」という一言で、たいていのことは大目に見て許してしまっているところがあるのではないかと思います。
 しかし実はこういう「性善説的な子ども観」の中に大きな落とし穴が潜んでいることが多いものです。私は昔から子どもが大好きで、かれこれ40年以上も教育関係の仕事を続け、休日もたくさんの子どもたちを集めて陸上クラブ(SAA)を主催していますが、そんな私から見ても、子どもというのは、決して純真で汚れなき存在ではなく、けっこう平気で残酷なことを言ったりしたりするものです。
                                                          
 先日ある高齢者の方(Aさん)から貴重な体験談を伺う機会がありました。Aさんが中学校に通っていた終戦後間もない時代の話です。誰もが一様に貧乏だった世の中で、友人の一人にいわゆる良い家のお坊ちゃんがいて、その子はいつも弁当にサンドウィッチを持ってきていたそうです。Aさんはそれがうらやましくてしかたなかったそうですが、ある日そんな息子の願いをいつも聞いていた母親が、イチゴジャム(粒のないのりみたいなもの)のついたサンドウィッチを持たせてくれたことがあるそうです。その日の昼食時、その友人がAさんのサンドウィッチを見て「俺のと交換しよう。」と言ってきたので一切れ取りかえたのですが、なんとその友人は「なんだジャムか。」と言って、一口も食べずにゴミ箱に捨ててしまったそうです。Aさんがもらったサンドウィッチにはコンビーフのような肉がぎっしり詰まっていたそうです。この時代にこんなものを食べられる人がいるのかと強烈なショックを受けたそうです。 

    考えてみると友だちというのは実に残酷なことを言ったりしたりするものです。親が子どもに知らせないよう努力してきた「人生の真実」(Aさんの場合は「貧富の差」)を一瞬のうちに壊し明らかにしてしまいます。

 学校という所は、別々の個性を持った子どもたちが一カ所に集まり、集団生活の中で多くの時間や空間を過ごす場所です。ですから、そこでは度々弱肉強食の争いが起こります。うちの子は集団生活が苦手だからという理由で、毎日家の中に閉じ込めて、親の庇護のもと温室で育てておくわけにはいかないのですから、集団での様々な活動の中で、人との関わり方を学び、子ども自身がたくましく心豊かに成長していくしかありません。その支援者として大切な体験を提供し、時に人生を教えてくれるのが友だちという存在です。
 
 そういう意味で、友だちとは極めて大切な成長への援助者だと言えるかもしれません。

08:49 | 投票する | 投票数(145)
2024/10/17

「しつけ」について考える④(監督から)

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  「しつけ」について考える④        監督 齊藤 秀樹

 先週は「しつけ」の基本として、まず“子どもの人格を認め、一人前の人間として扱うこと。そして、温かく受け入れてあげること。”でまとめました。
 さて、この本ではこの後も第2、第3の課題が次々に専門家から出されます。その中には、「どんな理由があってもお金を与えてはならない。」とか、「門限を決めて、それを破ったら、絶対に家の中に入れてはいけない。」というようなかなり厳しい課題が入ってきます。これを読んでいると、前回の“子どもを認め、受け入れろ”という内容と矛盾するように思いますが、それは違います。
 “子どもの人格を認め、受け入れろ”というのは、「まず、それをやれ。」ということで、決してズルズルと子どものわがままを通して、言いなりになれということではありません。たとえ家の中であっても、一つの共同体(小社会)として社会的規範(ルール)というものがあり、これを厳しく守らせることはとても大切なことなのです。
 この本を通して私たちが学ぶことは、『承認』(子どもを認め、受け入れてあげること)と、『拒否』(認められないことは、断固認めない、許さないこと)という2つの態度を、はっきりと使い分け、常に示し続けることが大切な教育(子育て)であり、これが“しつけ”の根本であるということです。
    実はこの本は、よく先生方の生徒指導研修会や保護者の家庭教育学級などで取り上げられています。私自身も何度となくこの話をしてきましたが、講義の後の参加者の質問の中でいつも一番多いのが、「承認」と「拒否」の境目、即ち「どこまでは認め、どこからは許さないのか」という判断が難しいという相談です。
 結論から書きます。私は‘親がよいと思ったことはよいし、ダメだと思ったことはダメ’なのだと思います。子どもの善悪の判断とか規範意識というのは、幼少時から言われ続けることによって、意識の中で形成されていきます。社会の変化に伴い個人の価値観が多様化する中で、個性化、自由化、子どもの人権…が尊重されるようになると、「自由でしょ。勝手でしょ。関係ないじゃん。放っといて。」という子どものわがままな主張が、当然認められるべき権利であるがごとく子どもたちの口から次々と出てきます。しかしこれに対しては、「ダメなことはダメ」「家ではダメ」「お父さんはダメ」(※注①)と堂々と言えばよいのです。
 そんなこと言ったって、なかなか子どもは素直に言うことを聞いてくれないという方もいるでしょう。確かに一昔前は、親の尊厳とか威厳というものが、社会の中でしっかりと認められ定着していましたが、今の時代はそれだけでは難しいかもしれません。
 親の方も子どもに「信頼される親」「尊敬される親」になる努力をしなければなりません。その原点は何といっても‘子どもへの理解と愛情’です。「あなたのことはわかっている。そして誰よりもあなたを愛し、大切にしている。」という根っこがあって、初めて成り立つものです。
 人間が人間を育てるのですから、“何を言うかより誰が言うか”によって、その影響や効力は全然違ってきてしまいます。大切なことは「誰が」の「誰」(※注②)になれるかどうか。これが勝負です。
 “大人は正しいことを教えてくれる存在。正しいことには逆らってはいけない。”ということを、今一度しっかり子どもたちに認識させることが大切だと思います。

※注①…お父さんが「ダメ」と言うことを、お母さんが「よい」と言ってしまっては子どもに正しい善悪の判断力がつきません。よく話し合い共通理解をして、子どもの前では常に同じ方向(方針)でしつけることが大切です。

※注②…大変言いにくいのですが、平気で赤信号を横断したり、列を無視して割り込んだり、他人の悪口・陰口を言ったりする大人は、決して「正しい」「誰」にはな    れないと思います。特に思春期を迎え、日々大人の言動に対してシビアな目で見ている子どもの前では厳禁です。                         完


06:44 | 投票する | 投票数(171)
2024/10/11

「しつけ」について考える③(監督から)

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 「しつけ」について考える③         監督 齊藤 秀樹

 それでは前回のお約束通り、専門家からの5つの助言(課題)について詳しく説明していきたいと思います。

 まずは、第1の助言「子どもと話し合いをしてはいけない。」についてですが、これは「非行」に走ってしまった子を持つ親というのは、口を開けばそれが全て“説教”になってしまうからです。子どもが思い通りにならない、どうしたらよいのかわからない、でもこの子を何とかしたい、という思いが強ければ強いほどそうなってしまいます。しかし、子どもは自分のやっていることが「悪いこと」「してはならないこと」だということは百も承知です。わかっていながらわざとやったり、やめられなかったりするのです。それならば、非行に関することでなければいいじゃないかと思うでしょうが、専門家はおそらく、この親はそれを区別するのが難しいと判断したのだと思います。つい他の話題から、その子の考え方や態度、行動への批判が始まり、それがお決まりの“説教”に発展し、ついには最もいけない“否定”につながってしまうことを恐れたのだと思います。
 しかし、「一切話をするな。」では、子どもとの接点が全くなくなってしまいます。そこで「話しかけてきたら相づちを打て。」と、第4の助言の「日常のあいさつは親の方からしろ。」が出てきます。

 子どもにとって、説教じみたことは一切言わず、顔を合わせたらあいさつはきちんとしてくれて、話しかけたら愛情を持って相づちを打ってくれる親。なんていい親なのでしょう。

 まずは親子関係の一番の基本として“子どもを認め、温かく受け入れ見守れる親になれ”ということなのでしょう。これに関してはおそらく異論もあるでしょうが、この一家のように、いわゆる「支配的な親」(いつも口やかましくて、自分の考えを細部まで持ちすぎている親。子どもの主張を抑え自分の型に押し込もうとするタイプの親。)にとっては、この助言はピッタリだと思います。

 次に第3の助言「他人を巻き込んではいけない。」と、第5の助言「いかなる友人からのいかなる内容であっても、本人に正確に伝えなければいけない。」についてですが、これは簡単に言うと“子どもの人格を認めろ”ということです。この本の中にも、悪い友人からの電話に対して、メモを取り、必死の思いで娘に伝える親の姿が度々出てきますが、たとえ「非行」に走ってしまった悪い子であっても、その子はその子なりに一人の人間として生きており、家の外での人間関係やつきあいを持っています。そのことは、一つの人格として認めてあげなければならないということなのでしょう。

 今回の専門家が出した最初の課題(助言)は、一言で言えば“子どもの人格を認め、一人前の人間として扱うこと。そして、子どもを温かく受け入れてあげること”が、まずは「しつけ」の第一歩(基礎基本)であるということです。
                                                                 つづく

07:54 | 投票する | 投票数(199)
2024/10/04

「しつけ」について考える②(監督から)

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  「しつけ」について考える② 監督 齊藤 秀樹

 皆さんは『積木くずし』という本をご存じですか。今からかれこれ30数年前、中学生の「非行」が社会問題として世間を騒がせていた頃に出版され、300万部を超える大ベストセラーとなりました。この本は、ある有名俳優が非行に走った我が子を主人公に書かれたもので、その後テレビドラマ、映画、リバイバル版…が次々に出ましたので、ご存じの方もいるのではないでしょうか。

 では、なぜこの本がこんなにも当時の親たちを夢中にしたのでしょうか。それは有名人が書いたからというより、親たちの中に「もしかしたら近い将来、家の子も…。ひよっとしたら明日にでも我が子が…。」という子育てへの不安が、とても他人事とは思えなかったからではないでしょうか。この本の中では、日に日に非行の度合いが激しくなる我が子と、その娘の一挙手一投足に戸惑い、悩み、オロオロするばかりの親の姿がしばしば出てきますが、これを読んでいくうちに、いつしか登場する親の姿と自分の姿を同一化し、「自分だったらこういう時にどうするか、どう扱えばいいのか、対処はできるのか…。」を一緒になって考え、探し、悩みながら読んでいったのでしょう。

  しかし、私がこの本の中で一番興味を惹かれたのは、実は親と娘との葛藤場面ではなく、親が娘のことで相談に行ったカウンセリングの専門家(警視庁の心理鑑定技師)からの助言と、この助言を必死に守ろうとする両親との闘い場面でした。実はこの専門家からの助言というのは、両親にとっては「こんな馬鹿な。こんなことできるはずがない。」というものばかりだったのです。

 では、専門家からまずはじめに出された助言を紹介します。 

助言1…「子どもと話し合いをしてはいけない。」(親の方からは絶対に話しかけてはいけない。もし子どもから話しかけてきたら、相づちだけを打て。しかし決して意見を言ってはいけない。)

助言2…「子どもに交換条件を出してはいけない。また、子どもからの条件も受け入れてはいけない。」

助言3…「他人を巻き込んではいけない。」(どんなに悪い友人から娘が被害を受けても、決してその友人の保護者に抗議したり、会って相談したりしてはいけない。)

助言4…「日常のあいさつだけは、親の方からきちんとしろ。」(それに対して、娘がしなくても叱ってはいけない。)

助言5…「友人からの連絡があった時は、それがいかなる悪い友人からの、とんでもない誘いであっても、本人にその通り正確に伝えなければならない。」

 いかがですか。専門家がこの親に何を求めているのかわかりますか。実はここからがおもしろいのですが、今週はここまでにします。次週はこの助言に込められた意味を説明していきます。

15:12 | 投票する | 投票数(235)
2024/09/27

「しつけ」について考える①(監督から)

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 「しつけ」について考える①  監督 齊藤 秀樹

【「しつけ」とは】
 『しつけ』という言葉は、辞書によると「礼儀・作法を仕込むこと」(新明解国語辞典)また、「子どもが所属するそれぞれの集団にとって望ましい基本的な行動様式、習慣、価値、態度を教えならすこと」(学校カウンセリング辞典)とあります。
 「心の教育」の充実や重要性が叫ばれて久しいのですが、「悪いことは悪いとしっかり教える。世の中には、人としてしてはいけないことがあることを理解させる。…。」という『しつけ』という問題について今週から数回に分けて考えてみたいと思います。

【外側からのしつけ】  
  ペットを家で飼う場合、飼い主は部屋の一角に砂や新聞紙を入れた箱を置き、そこで用便ができるように「しつけ」ます。きちんとできたら餌などのご褒美を与え、できないと叱ったり、時には叩いたりしてできるまで練習させます。ペットをしつけるには、このような方法が最も効果的で、手っ取り早くしつけることができるそうです。  このように『しつけ』には、いやでも何でも無理矢理やらせることによって「慣らしてしまう」(できるようにさせてしまう)という方法があり、これを「外側からのしつけ」と言います。  教師も保護者もそうですが、「この子を何とかしたい」「このままではまずい」という気持ちが強ければ強いほど、手段を選ばずにできるだけ短期間でよりよい成果を求めたくなります。例えば、家庭学習の一覧表を貼りだし、そこにシールを貼って背比べ競争をさせるとか、約束が守れなければ、グラウンドを走らせたり、残り掃除を命じるとか、百点を取ったら小遣いをあげる…の方法です。 このように競争をさせたり、罰を与えたり、報酬を与えたりすることによって、できるようにしていくというやり方は、前述のペットを慣らすのと同じで、時にとても効果的なしつけ法です。  しかしこの方法には、大きな欠点があります。子どもは罰がいやで(報酬がほしくて)やっているわけですから、たとえ一時期その人の前ではできるようになっても、別の場所や違う人、環境によって、すぐに元に戻ってしまうことが多いようです。

【内側からのしつけ】 
 人間の子どもを育てるというのは、ペットをしつけることとは違うのではないかと思います。そこで「内側からのしつけ」をお薦めします。「内側からのしつけ」というのは、簡単に言えば「自分自身の判断基準で、自分からやろうとすること」です。このしつけ法には、次の3つのステップがあります。

①「理解」…何でそれをするのか。なぜしなければならないのかがわかっていること。
②「方法」…どうやればよいのかを知り、やり方を身につけていること。
③「意欲」…自分から進んでやろうとすること。


   例えば「食事の前には必ず手を洗う」ということをしつけたいなら、まずは①衛生面、健康面、マナー等から、その必要性を子どもが納得いくまでわからせます。次に②子どもを水道の前に連れて行き、石けんを使って何度も繰り返し洗わせ、正しい手の洗い方を身につけさせます。③後は、その子が自分からやる気になればよいのです。こう書くと実に簡単そうですが、これはけっこう根気がいる仕事です。「どうしてやらなければいけないの」(理解)と「どうやればいいの」(方法)はどちらかというと解決しやすいのですが、一番やっかいなのは「やる気がしない」「面倒だからやらない」(意欲)という問題です。どうしてやらなければならないのかはわかっているし、やり方も知っている、だけどやらない?…。「ふざけるな!」と怒ってみても仕方ありません。  「子どものやる気を引き出す方法」というのは、詳しく書くと長くなりますので、別の機会に回しますが、要は山本五十六の名言“やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は育たず”ではありませんが、「信じて、認めて、ほめて、励ます」ことを繰り返し、長い目で子どもを見守ることが大切です。             つづく

15:06 | 投票する | 投票数(276)
2024/09/23

ホームページ110万アクセス達成(監督から)

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ホームページ110万アクセス達成  監督  齊藤 秀樹

    SAAのホームページが先週ついに110万アクセスを突破しました。今の形式にリニューアルした当初は1日平均100名くらいだった閲覧者数が、次第に増え続け、最近は平均1000名(一ヶ月17000名)の方々に毎日見てもらえるようになりました。
 保護者の方々と話していると「ホームページは常に子どもの姿を公開し、開かれたクラブづくりに努めてくれている」「ホームページは指導方針や子どもの様子を分かりやすく説明している」と答えてくれる方々がたくさんいました。このことからも、毎週更新しているホームページがクラブと家庭をつなぐ重要な橋渡しになっていることがよくわかります。
 今回はせっかくの機会ですので、今一度SAAにおけるホームページの重要性について考えていきたいと思います。

 ここ数十年で日本の社会は急激に変化してきました。グローバル社会(国際化の進展)、高度情報化社会(IT社会)、少子高齢化社会、規制緩和社会、情報公開社会、行政参加型社会…。私はこの中でも最も顕著なのが「価値多元化社会」の到来だと思っています。日本人が古くから持っていた、価値観や規範意識というものが多様化し、「求心力」(中心に集まる力)がなくなり、「遠心力」(中心から離れようとする力)によってどんどん人々の個性化、個別化が進んできました。そして、一人ひとりがバラバラで、核となる規範のない、まとまりのない社会になってきていると思います。
 
 さて現在、SAAは150人という別々の個性や生い立ちを持った子どもたちを、別々の環境や考え方を持った家庭(保護者)から預かり指導しています。ですから監督や先生方が「こういう考えで、こういう活動に力を入れて、子どもたちを育てたい。」と言っても、それに対して賛成・反対は当然出てきます。学校で個人面談をしても、各担任に対して「もっと宿題をたくさん出してほしい。」という家庭もあれば、「勉強は学校の中でしっかり教えてください。家では机上ではできない体験や子どもの才能を伸ばす学習をさせたいので…。」という方もいるでしょう。

 要するに大切なことは「クラブや学校のやり方は、我が家の子育てとは違うけど、何をしたいのか、どんな子どもに育てたいのかはよく理解できる。そしてその実現のために指導者や先生方は常に全力で子どもの指導に当たってくれている。そんな中で子どもたちは生き生きと活動し、精一杯がんばっている」ということだと思います。クラブや学校というところは「子どもをたくましく、かしこく、よりよい子に育てたい」という指導者と保護者の共通の願いのもとで、人と人とをつなぐ求心力を持った存在でありたいと思っています。

 学校の考え方や子どもの活動の様子が、常にホームページで公開されているということは、例えば、学校で本校の子どもたちは「連帯」する力が弱いので、クラスみんなで心を一つに団結して勝利をめざす「長縄とび」を頑張らせている、という学校の取り組みの主旨と、各クラスが全力で記録更新をめざして練習を重ねている様子が公開され、それを保護者が理解していれば、「家の子は長縄が嫌だから学校に行きたくないと言っています。是非、長縄大会はやめてほしい。」等という保護者からの不満や苦情が、学校に寄せられるようなことは少なくなると思います。
                                                                            
   SAAは、これからもクラブ内での教育活動や練習内容を毎週写真と共に保護者の皆さんにトップページで公開し、大会情報やフォトギャラリーのページを充実させ、更に「監督から」を通して、SAAの教育理念や教育内容を説明し、理解と支持を得る努力を継続していきたいと思います。今後ともご愛読いただけますようよろしくお願いいたします。

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