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大人は、誰も、はじめは、子どもだった日誌06/22 08:48
今一度「子育て」を見直そう(監督から)日誌06/15 08:56

          齊藤 秀樹  監督

 
 

監督から

日誌
12
2021/06/22new

大人は、誰も、はじめは、子どもだった

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“大人は、誰も、はじめは、子どもだった” 監督 齊藤 秀樹  

    私は柏市という所に住んでいます。そして地元の柏にはたくさんの友人たちがいます。もちろん一番多いのは同業者である教員ですが、その他にも、会社員、市役所、医者、会計士、床屋、葬儀屋、焼き鳥屋、建設業、市場関係者…実に様々です。みんな30年来の友人たちですので、いつも「先生」とか「ひでき」と言って仲良くしてくれる大切な仲間たちです。

 そんな友人たちが集まると、よく「今の教育は」とか「今の子どもたちは」という話題が出てきます。そしていつもきまって「今の子どもたちは昔と違って…」「俺たちのガキのころには…」という話になってきます。例えば「いじめなんてものは、昔からどこにでもあったものだよ。弱虫で泣き虫の奴はよくいじめられていたもんだ。しかし今のいじめっていうのは、陰湿でジメジメしてしているし、加減というものがわかっていないんだ。その辺が昔とは違って悪いところだな。」なんて言って、眉をひそめて知ったような顔で教育論議に花を咲かせています。私はいつもこういう「昔と比べて、今の子どもたちはどうしようもない」的な発言を聞くと腹が立ってきます。

 それは自分が長年教員という仕事してきたからというのではなく、子どもというのは大人が作った社会の中で生きているのであって、子どもの社会というものが大人の社会とは別に存在するわけではないと思っているからです。「今の子は、わがままで、我慢ができず、陰湿で、世の中をなめている」そんな子をつくったのは、間違いなく大人の責任であって、大人の世界と子どもの世界が別々にあると錯覚しているのは、大人が子どものことをあまりに知らなすぎる(無関心すぎる、放ったらかしすぎる)からに他ならないと思います。別の言い方をすると、大人は大人、子どもは子どもで生活し、両者の距離が離れすぎていると言えるかもしれません。

 皆さんは今子どもたちの間で流行っている遊びやテレビ番組、ゲームや漫画、子どもたちが集まる場所等をどれくらい知っていますか。数年前にある教育調査で「子どもの思いやり度調査」というのがあり、その中の項目に「好きなテレビをがまんして家族に譲ったことがありますか。」という質問に対して、多くの子が「自分の部屋にあるから経験がない。」と答えていました。家族の各自が自分の部屋にこもって、お互いの世界には干渉しないで過ごすという家庭も多いのではないでしょうか。先週も書きましたが、最近、頻繁に起こっている青少年の凶悪な犯罪の中には、毎日生活を共にしているにもかかわらず、我が子の変化や歪んだ性癖に、「まさか家の子に限って…。」と親が全く気づかなかったという事件が数多く報道されています。

  要するに私が言いたいのは、子どものすることを「くだらない。ばかばかしい。何をやっているんだ。」という大人の目で見てしまわずに、大人が子どもの世界まで降りていって、趣味や楽しみを共有する(共に楽しむ)ことが大切ではないかと思います。

  星の王子様という本の冒頭に“大人は、誰も、はじめは子どもだった”という名言がありますが、親になった今、このことを忘れずにいられる大人はとても少ない気がします。子どもを理解し、賢くよりよい子に育てるためには、まず「自分が子どもだったらこんなことをしてほしいな。」「こんなことは絶対に言ってほしくないな。」「あの時の父親からの励ましが、今の自分の活力の源になっているな。」等の“子どもから見た目”(子どもの視点)を持つことが大切だと思います。

 「親」という漢字は「木」の上に「立」って「見」ていると書きますが、たまには木から下りて、子どもと同じことを一緒にしてみることも必要です。ただしここで大切なのは「遊んであげる」「つきあってあげる」ではなく「共に楽しむ」(自分も楽しい)という関わり方が理想です。子どもがうるさくてしかたないから、面倒だけどたまには家庭サービスでもするか…。という意識では決して長続きはしませんよ。

 “子ども笑うな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの”


08:48 | 投票する | 投票数(17)
2021/06/15

今一度「子育て」を見直そう(監督から)

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 今一度「子育て」を見直そう   監督 齊藤 秀樹

  ある本に、「人間だけでなく動物は全て必ず子育てをする。しかし子育てに失敗するのは人間だけである。」と書いてありました。動物の子育ては実にシンプルです。それは「自分一人で生きていける(生き抜いていける)子に育てる」という明快な目標があるからです。それに対して人間は「ああなってほしい。こうなってほしい。欲をいえばここまで…。」と、子どもにいろいろなことを要求し、様々な働きかけをします。その結果、子育てに失敗し、時に取り返しのつかない人間を創り出してしまう場合もあります。

    今から30数年前の夏休みに、4才から7才の幼女4人を連続して殺害するという大事件が起こり日本中を震撼させました。当時まだ若手教師だった私は職業上、連日報道される犯人の生い立ちや性格、家族構成等の情報を興味深く見ていました。テレビや新聞の報道では、犯人像を「異常な人」「変人」…と扱っていましたが、私は反対に「こういうタイプの子は学校の中にもいるな。いやこれからもっと増えてくるような気がする。」と思っていました。予想通りその後も同じような悲惨な事件が度々起こり続けています。

 それではこれらの犯人像からその特徴的な性格を考えてみたいと思います。
「人とのつき合いができない」…子どもの頃から人との関わり方が下手で友人が少なかったそうです。人は多くの人と出会い、集団の中で生活することによって社会性や協調性を身につけ、社会的な常識やルールを知り、人に助けられたり助けたりする経験を通して思いやりの大切さを学び、自分を成長させていくものです。彼は同年代の友人が作れないために、幼い子や弱い子に異様な興味を示し、思い通りに従わせたいという歪んだ欲求が強くなってしまったようです。
 
「がまんができない」…人は大げんかをしたり、他人から自尊心を傷つけられたりすると、時に「殺してやりたいほど憎たらしい」と思うこともあるでしょう。しかし、普通の人間は例えそう思っても実行に移すことはありません。他の動物たちとは違い人間には「理性」があります。自分の感情を抑えることができます。ほしいものがあってもお金がなければがまんするし、おしっこがしたくてもトイレを探すまでがまんできます。裕福な家庭に生まれ、早くから自分の部屋を与えられ、何でもほしいものは買ってもらえた犯人は、がまんする経験が極端に少ない子だったようです。

「夢と現実の区別がつかない」…がまんすることとも関係が深いのですが、小さい頃はいろいろな空想をします。空を飛んでみたい。魔法が使えるようになりたい。宇宙人と会って話がしたい。…。しかし、年齢を重ねるうちに現実を知り、昔は不思議なことを考えたものだと懐かしむようになります。一連の犯人達の死体を切り刻む、焼いて食べてみる等の行為は、ロリコン漫画やホラー映画の世界にのめり込み、空想と現実、妄想と犯罪の区別がつかなくなってしまった典型だと思います。

    この事件はその8年後に起きた中学生による神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)とともに教育界に衝撃を与え、文科省はこれからの教育は学校だけでは限界がある。学校を週5日制にし、根本である家庭教育を今一度見直すべきだという答申を出しました。そして学校では、従来の知識偏重教育(知識を大量に詰め込む)から「生きる力の育成」(自ら考え、判断し、解決する力の育成)を重視した教育へと大きく方向変換するきっかけになった事件です。

    ズバリ言います。子育ての究極の目標は、オリンピック選手を育てることでも、東大に入学させることでもなく「我が子を決して犯罪者にしないこと」だと思います。

08:56 | 投票する | 投票数(56)
2021/06/08

今一度考えたい「学校安全」について(監督から)

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 今一度考えたい「学校安全」について  監督 齊藤 秀樹

    平成13年6月8日(金)午前10時過ぎごろ、犯人は開いていた学校の東門前に自動車を止め、出刃包丁と文化包丁の入った緑のビニール袋を持って学校の敷地内に入った。そして一階の教室に次々に侵入し、子どもたちを出刃包丁で切りつけ突き刺し、子ども8名が死亡し、子ども13名、教員2名の計15名が負傷した。これが今から20年前に起こった大阪教育大学付属池田小学校事件である。「まさか。小学校に侵入し、子どもを無差別に刺し殺すなんて。あり得ない。」当時の世間はあまりの衝撃に騒然となったものです
 この事件は学校の安全神話を一瞬のうちに崩壊させ、学校安全の在り方に多くの課題と教訓を残した事件でした。今回は丁度20年前に起こったこの事件の教訓を今一度検証し、学校の基本的な安全対策について書いていきたいと思います。

  池田小学校は、国立大学の付属校という特性から、遠方から通学している子どももあり、保護者は自動車で来校することも多く、東門は常に開いていました。犯人は裁判の公判の中で、「もし門が閉まっていたら入らなかったかもしれない。」という趣旨のことを言っていましたが、門が開いていたばかりに尊い8名の命が失われたといっても過言ではないかもしれません。今多くの学校では、常に日中は正門・裏門を全て閉めています。また自動車は事前に駐車券を申請するという形を取っている学校もあります。これに対して、「面倒だ。不親切だ。」と感じる方もいるでしょう。しかしこの対応は、子どもの安全を第一に考えた安心・安全な学校づくりのためであることを、今一度ご理解する必要があると思います。
 
    この事件では門から入って少しした所で、教員が犯人とすれ違っていました。しかし声をかけることなく犯人は校内に入ってきてしまいました。この事件以前の学校では来校者に声をかけると、疑っているようで失礼なのではないかという風潮がありました。しかしあの時に教員が一言「こんにちは。」「どちら様ですか。」「何かご用なら承りますが。」と声をかけていたら、この学校は外部の人にはガードが固い学校だと感じ、犯行を躊躇したかもしれません。現在多くの学校では、極力来校者には挨拶や声かけをするよう努めています。また保護者には必ず「入校証」をつけてもらい、授業参観や保護者会の会議以外は職員玄関からインターホンで職員室に連絡し、職員に用件を伝えてから校舎に入るようにお願いしています。用件を聞くことや声かけをすることは決して失礼なことではなく、安全に配慮している証拠であることをご理解ください。

    最後に子どもたちの被害を拡大させた最大の教訓は、学校に緊急時の連絡体制が整っていなかったということです。犯人が2年南組に侵入した時刻はちょうど2時間目が終わり、休み時間になったばかりの時で、この教室には担任は不在でした。次に隣の2年西組に入った時はまだ授業中で、担任は侵入に気づき教卓上の電話機を取ろうとしたものの、犯人を刺激すると思って受話器を置き、警察に通報するため事務室へ向かってしまいました。この事件は教員が誰もいない2つの教室の中で、子どもたちに避難誘導もないまま、次々と幼い子どもが犠牲になってしまったのです。更に2階、3階にいた教員はこの10分の間、誰もこの異変に気づいていなかったといいます。ここで問題なのは、不審者が侵入してきた時の担任の対応と連絡方法、全校体制での避難誘導の仕方、そして日常の避難訓練等の安全対策の在り方です。

    この事件以降、全国各地の学校では「不審者侵入時の対応マニュアル」が整備され、定期的な訓練が実施されるようになりました。不審者が侵入してきたらまず担任が笛を鳴らし、周囲の学級に非常事態を知らせると同時に子どもを守り避難誘導させる。そして同学年の担任が職員室へ不審者の侵入をインターホンで伝える。校内放送で全校に不審者侵入を知らせ、教職員は決められた役割分担にしたがって、侵入した学級へ急行する職員と児童の避難誘導に当たる職員に分かれ対応する。…。というマニュアルを作成し、定期的に訓練が実施されています。

 最後に、よく勘違いされるのですが、「開かれた学校づくり」とは、学校の透明性を高めるために、教育理念や教育方針を常に明確に示し、学校での様々な子どもの活動を授業参観やホームページ、学校だより等で常に公開し、学校教育への理解と支援を得ようというものであって、いつでも誰でも自由に学校に入れるよう門や玄関を開いておくというものではありません

08:20 | 投票する | 投票数(97)
2021/06/01

「運動ができる子」は「勉強もできる」(監督から)

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 「運動ができる子」は「勉強もできる」 監督 齊藤 秀樹

   「運動神経がない」から運動は苦手、という話をよく聞きます。しかし「運動神経がない」人なんてこの世に誰一人いません。自転車は、小さい頃にがんばって練習して一度でもできるようになったら、その後は一生乗れます。
  しかし、子どもの頃に乗れるまでがんばらなかった人が、大人になって自転車の練習をしても、乗れるようになるには子どもの何倍も努力が必要になります。運動神経が鈍いのは生まれつきではなく、ある運動をできるまで練習したかどうか、つまり、できるようになるまでがんばったかどうかで決まります。決して遺伝で決まっているわけではありません。
 
  日本人は右手で文字を書く人が多いのですが、それはいつも右手で書いているから上手になったのです。ケガなどをして右手が使えなくなってしまった人たちの中には、努力して左手で上手にかけるようになった人がたくさんいます。
 できるようになるまでの練習時間が長いか短いか、回数が多いか少ないかは個人差がありますが、できるようになるまで最後まであきらめないでがんばれば、誰でも必ずできるようになります。
  
  一般に「器用だ」「上手だ」と言われている人は、子どもの頃に身体を使ういろいろな遊びを体験して、様々な運動のパターン(感覚)を獲得している人です。そのパターン(感覚)は、小さなプログラムになって「脳」に格納されます。それが多ければ多いほど、手先が器用だったり、巧みに身体を動かしたりすることができるようになります。また、将来新しい動きや技に初めて出会った時も、以前に獲得したパターンを加工すればすぐにできるようになります。
    このように子どもの頃に遊びや運動を通してたくさんの動きを脳に格納しておくことが、将来運動ができる子を育てます。
 
  ところで皆さんは「運動ができる子は勉強がダメ」一方、「勉強ができる子は運動がダメ」というイメージを持っていませんか。確かにスポーツばかりに夢中になって全然勉強しない子は、成績がよいはずはありません。しかし、前述したとおり「運動」と「脳」は実は深い関係があるのです。「勉強はアタマで、運動はカラダで」とか、「うちの子は頭が筋肉だから…」なんて思っている人が実はたくさんいます。
 しかし、ものを覚えたり、考えたりするのも、身体を器用に、巧みに動かしたりするのも、全て「脳」がするものなのです。
 
  最近の研究では、“運動ができる子どもの方が、できない子どもより学力が高い”という結果が数多く発表されています。
  ではなぜ運動すると勉強もできるようになるのでしょうか。一つは、運動すると「脳が活性化される」ということです。これを東京大学大学院の深代教授は「運脳神経」と呼んでいます。もう一つは、運動すると「活力」が育ちます。これは私が教育に一番大切な資質だと思っている能力のことです。もう何度も書いていますが、「活力」とは、自ら「わかるようになりたい。できるようになりたい。うまくなりたい。勝ちたい。」という「内面からのエネルギー」のことで、これがないと子どもは決して伸びません。一般には「やる気・モチベーション」と呼んでいるものです。

  白井アスレチックアカデミーは、これからも陸上競技を通して、脳の活性化を図り、活力を高め、「かしこく、たくましい子」を育てていきたいと思います。


09:02 | 投票する | 投票数(131)
2021/05/25

「厳しさ」と「やさしさ」(監督から)

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 「厳しさ」と「やさしさ」 監督 齊藤 秀樹

  現在私は白井市教育委員会の「学校支援アドバイザー」という立場で、市内の各小中学校を連日訪問し、先生方の人材育成・指導力向上のために指導・助言をする仕事をしています。今回はその中で話したことの一部を紹介したいと思います。

  私はよく「星の王子様」という本の冒頭文にある“大人は、誰も、昔は子どもだった”を引用して、子どもを教育するときは、「自分が子どもだったら…」という“子どもから見た目(視点)を忘れない”ことが大切なポイントだよ。という話をします。

  そこで、今回は私が教師という職業をめざす原点となった小学校時代に出会った2人の担任の先生と、教師になってから出会った1人の本物のプロ教師について書いてみたいと思います。 
 
    私が小学1年生の時の担任の先生はA先生という55才くらいの女性ベテラン教師でした。優しさの中に厳しさもある大好きな先生でした。冬のある日、その日は大雪の降るとても寒い日でした。私はジャンバーの上にビニールのコートを着て学校へ行きました。帰りの会が終わり、みんなで昇降口まで行って帰り支度をはじめました。私は寒さで手がかじかんで上手くビニールコートのホックがはまらず困っていました。そこで先生に「先生ホックはめて。」と甘えた声で頼みました。すると先生は「ヒデキ君、あなたは自分で出来ます。」と一言言って、他の子の面倒を見に行ってしまいました。私はその一言が悲しく、泣きながらホックをはめて走って帰りました。このことがあってから私は先生が嫌いになりました。なんて不親切で冷たい先生なんだろうと思いました。しかしその時以来、私はあまり人を頼らなくなり、自分のことは自分でやるようになりました。今思うと、実は先生ほど私を理解してくれていた人はいなかったのかもしれません。「君には出来ます。」の一言で私は泣きながらも自分でホックをはめられたのです。先生はきっと私を、人に助けを求めず自分の力で解決できる自立した子に育てたかったのでしょう。
  “厳しさは決して不親切ではない”と思います。小学校1年生で出会ったA先生には、どんなにやさしくしてくれた先生より今は感謝しています

  私が小学校4年生の時の話です。暴れん坊で悪ガキだった私は、休み時間になると決まって教室の後ろで友だちとプロレスごっこをして遊んでいました。その日はいつになくだんだんエスカレートしてきて、跳び蹴りのまねをした時、ベランダに出る後ろのガラスドアを割ってしまいました。「ガチャーン」というものすごい音を立ててガラスが割れ、教室中が大騒ぎになりました。その音を廊下で聞きつけた担任のI先生(30歳代の男性教師)が、血相を変えてすごい勢いで教室に駆け込んできました。私はまずい怒られると思い、心の中で(コラー。何をしているんだ。またお前か。…。)と怒鳴られ叱られる心の準備をして、体を硬く丸め下を向いていました。ところが先生の第一声は「ヒデキ。大丈夫か。ケガはないか。よかった。」でした。私は何が何だか訳がわからずにボーッと先生の顔を見ていましたが、知らぬ間に涙があふれオンオンと泣いてしまいました。悪戯したことや、物を壊したことなんかより、子どものケガを一番に心配し、一人ひとりをいつも大切にし愛してくれる、I先生はいつもそんなやさしい先生でした。

  私が教員になって2年目にすばらしい学級経営をすると評判の2年生の学年主任の先生の授業を、若手教師数名で見せてもらっていた時の話です。確か算数の授業だったと思いますが、実に分かりやすい説明で、子どもたちも学ぶ意欲にあふれたすばらしい授業でした。授業が始まって20分くらいたったころでしょうか、先生が突然「みんな姿勢を正して、目をつむりなさい。」と言いました。私は何が始まるのだろうとじっと先生の様子を見ていましたが、先生はみんながしっかり目をつむって静かになったのをみると、一人の女の子の所へ行き、その子をそっと抱き上げて私の方に歩いてきました。そして「気づかれないように雑巾でふいておいてください。」とだけ言い残し、教室を出て行きました。私は言われたとおりに雑巾を持ってその子の席に行くと、何とおしっこを漏らしてしまっていたのです。全く気づきませんでしたが周りに気付かれないようにそっと拭き取りました。クラスの子は先生に言われたとおりじっと目をつむっています。しばらくして先生はその子と教室に戻ってきて、前と同じように授業が始まりました。数人の子が不思議そうな顔をしていましたが、誰一人としてお漏らしには気づかなかったようです。私はまるで魔法でも見ているような気がしてあっけにとられていました。同時に子どもの心を傷つけないよう細心の気配りをして、子どもたち一人ひとりを大切に育てている先生の姿に感動したのを今でも良く覚えています。

  教育(子育て)は、いかに子どもを理解し、大切にできるか、そして子どものためにどこまで関われるかを追求していく営みであると思います。

07:22 | 投票する | 投票数(158)
2021/05/18

自分で考え、判断し、決定する力

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自分で考え、判断し、決定する力 監督 齊藤秀樹

   「お母さん、今日雨降るかな。」「そうね。天気予報でもそう言っていたし、この様子だときっと降るから、傘を持って行きなさい。」「はーい。」ある朝の玄関先での会話です。ところがその日は予想に反して一滴の雨も降りませんでした。学期末で荷物が多い上、傘まで持って帰ってきた息子は、開口一番「何だよ。雨なんか降らなかったじゃないか。お母さんの嘘つき。」と言ってすごい勢いでプンプン怒っています。

    実はお母さんの天気予報は結構よく当たり、家族もそれを認めていて、時折それを無視して出勤してしまう父親が、夜の帰宅時になると「傘がないので迎えにきてくれ。」と電話をかけてくるたびに、母親から小言をもらっている姿を子どもたちもよく見ていました。そんな母親の口癖は「いい。お母さんの言う通りにしておけば間違いないのよ。」でした。

  さて、このように‘母親の判断こそが正しい’という経験が続けば、子どもは“自分で考え、判断し、決定する”ことをやめてしまいます。何でも母親に尋ね、それに従っていた方が楽だし、たまに不都合が起こってもそれは全て母親のせいにしてしまえばよいのです。即ち、子どもは結果を見て、その責任を引き受けなくてよいのです。子どもは有能な母親に依存し、ほとんど失敗や後悔を味わうことなしに、子ども時代を過ごすことができます。

  しかし、当然そういう育ち方をしていると、その子は母親なしでは生きていけない、とても不安な子になります。そして、何かにつけて思い通りにならないことを「誰かのせい」にする被害者意識の強い子にもなります。

  考えてみれば人生というのは、“判断”の連続です。今日傘を持って家を出るかどうかも1つの判断です。何かを決めるということは、同時に何かを捨てることです。時に切り捨てたものの大きさに悔やむこともあるでしょう。しかし、子どもたちは日々の生活の中で小さな判断を繰り返すことによって“自分で考え、判断し、決定する”ことの難しさを学びます。これは同時に、自分で下した判断の結果に直面し、それを「自分の責任」として引き受けなくてはならないということも学ぶのです。思い通りにいかない人生を、どうやって生き抜いていけばよいのかという力を身につけていくのです。

  これはとても厳しい学習です。子ども自身が判断し、決定するまでじっくり待ち、そこでどんな結果が出ようとも、それを責めたり叱ったりすることなく見守れる大人の存在なくしてできないことです。

  保護者として、子どもたちから慕われ頼られる存在であることはすばらしいことです。でも、それに満足していると、いつしか知らぬ間に、子どもを自分の思い通りにする「あやつり人形」にしてしまっていることがあります。今育てなければいけない自主性や責任感という大切な芽を摘んでしまってはいけないと思います。

   「いつまでも あると思うな 親と金」という言葉があります。教育の究極の目標は、「生きる力の育成」です。「生きる力」とはどんなに時代が変化し、どんな社会が来ようとも、自分のことは“自分で考え、判断し、決定していく”という力のことです。生きる力を身につけるには、子どもの頃から、日常生活の中で日々実践し、積み重ねていくことが大切だと思います。  

12:00 | 投票する | 投票数(150)
2021/05/13

「外遊び」のススメ(監督から)

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  さわやかな新緑の風が吹き抜ける季節になりました。初夏の太陽がサンサンと降り注ぎ、子どもたちの服装も春から夏へと急ピッチで「衣替え」が進んでいます。

  「外遊び」のススメ        監督 齊藤 秀樹

    もうかれこれ十数年前になりますが、教育関係者の間で「どこかおかしい子どもの体」という一冊の本が話題になりました。そこに出ているいくつかを紹介してみると、①背中がぐちゃぐちゃしている。②転んでもすぐに手が出ないため顔を打つケガが多い。③ボールが避けられず目に当たる。④頭痛・腹痛持ちが多い。⑤低体温(35度台)の子が多い。⑥少し動くとすぐに「疲れた」という。…などです。その当時は「えー本当なの。今まではそんな子はいなかったのに…。」とあちこちの学校の先生方から驚きの声が聞こえたものです。しかし、現在先生方にこの話をしても、「どこにでもよくいる子」としてあまり珍しくなくなってしまいました。
  体のゆがみや体力・運動の能力の低下という問題は、生命活動の基盤である「動ける体の衰退」とも言われています。
  体づくりや体力・運動能力というと、ついスポーツや鍛錬の問題と考えがちですが、その原点は、幼いうちから「気軽に体を動かす経験」の不足、即ち「外遊びの不足」が一番大きな要因だと思います。
  子どもたちが外遊びをしなくなった要因は、子どもたちを取り巻く急激な社会の変化、特に都市化に伴う自然体験の喪失、塾や習い事による時間的な余裕のなさ、人間関係の希薄化による地域社会の衰退、コロナ感染問題、更には子どもたちを室内に吸い寄せる快適で魅力的なパソコン・スマホ・ゲーム・漫画等の室内遊びの進展…。地域における自然発生的な遊びとそこに集まる仲間たちを通して、年長者が年少者の面倒を見、上手な子が下手な子を教えながら、ごく自然に身についてきた「体を精一杯使って動くことの楽しさや爽快感」が失われつつあることは、子どもたちの今後の成長にとってとても心配です。
 それでは、外遊びにはどんな教育的効果があるのかについて、最も身近な「鬼ごっこ」を例に挙げて紹介してみたいと思います。
「体力・運動能力」…身体を動かすことで持久力・瞬発力・調整力が身につく。
「社会性」…友人達との関わりの中で、他人を認めたり、自分を主張したりできる。
「忍耐力」…じっと我慢したり、苦痛に耐えたりすることができる。
「創造力」…捕まえ方、逃げ方、隠れ方を工夫し、考えることができる。
「心の鍛錬」…人と競い合う中で、できる喜び、できない悔しさ恥ずかしさを体験できる。
「心の解放」…身体を思い切り動かすことの爽快感を感じ、気分の発散やストレスの解消に繋がる。
「自然の体感」…暑さ、寒さ、風の強さ、急な天候の変化などの自然を感じることができる。
  
 いかがですか。まだまだあるとは思いますが、ざっとこんな効果が考えられます。白井アスレチックアカデミーの活動は、原則週一回です。子ども達が自分の可能性に挑戦し、大会などで活躍し、輝くためには、どうしても日常の「外遊び」(気軽に身体を動かす習慣)が不可欠です。現在仕事で白井市内の小中学校を連日訪問し、子ども達の学校生活を見学、観察していますが、多くの学校で業間や昼休みになると、先生や友だちがグラウンドに出て、たくさんの子が汗びっしょりになりながら外遊びを楽しんでいる姿を見かけます。とても大切なことだし、すばらしいことです。

07:19 | 投票する | 投票数(144)
2021/05/04

活力ある学校には元気な先生がいる(監督から)

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 活力ある学校には元気な先生がいる   監督 齊藤 秀樹

 子どもには無限の可能性があります。子どもは誰でもよい芽を持っています。私たち教師の仕事は、“子どもたちの持っている可能性やよい芽を、発見し、引き出し、伸ばし、輝かせてあげること”だと思っています。

  さて私は常々「子どもたちを輝かせるには、まず先生方が輝かなければならない」と思っています。活力ある良い学校の原点は「活力ある先生方」の存在です。
  先生方が生き生きとして元気な学校は、子どもたちも元気です。元気な子どもたちが生き生きとした活力ある学校をつくります。そして活力ある学校には必ず活力ある先生方が生まれます。

  では先生方が、いつも元気に生き生きと(活力)働ける学校とは、どんな学校(職場)のことなのでしょうか。何事もうまくいっていて、課題もトラブルもなく、取り立ててやるべきこともない、楽な職場のことでしょうか。私はそうは思いません。
  なぜなら、様々な課題を解決していくことが学校現場の本質だと思うからです。何一つ解決するべき課題がないならば、少々大げさな言い方をすると、学校そのものが必要なくなります。これは、犯罪が存在しない社会なら警察はいらず、世の中に病気やケガが存在しなければ病院もいらないというのと同じ理屈です。

  勉強ができない、運動が苦手だ、人と上手く付き合うことができない、悪いことをして人に迷惑をかけるなど、未熟な存在だからこそ子どもたちは様々な課題を持っています。この課題を解決するには、時間も労力もかかりますが、こうした子どもたちと真正面から向き合い、丁寧に粘り強く教え、育て、共に考え、汗を流すことで、できなかったことができるようになり、子どもの変容や成長が実感できたときに、教師のやる気は最高潮に達し、「やった。よっしぁー。」という成就感、達成感を味わうことができるのです。そもそも学校とはそういう職場であり、そこに学校という存在価値があります。

  しかし残念なことに、近年「教師は多忙だ」「ブラック企業だ」という面がクローズアップされ、教員になりたがらない若者が増え、せっかく教職についても多忙さによる負担感によって心身を壊してしまう教員、志半ばで辞めてしまう教員が、増加の一途をたどっています。確かに教師という仕事は、境界線のない職務といわれるように、朝から晩までいくら働いても、一切残業手当も付かない特殊な職業です。

  私は「多忙」という言葉には2つの意味があると思っています。1つ目は「物理的な多忙さ」で、とても職務時間内では自分の能力ではやりきれない程の仕事量がある状態のことです。2つ目は「精神的な多忙感」で、自分の仕事にやる価値が見い出せない、やりたくもないことをやらされている等の「やりがいのない忙しさ」のことです。この必要感のない仕事への「負担感」や、自分のやりたいことができない「不満感」こそが、教師の活力を減退させる「多忙感」の正体だと思っています。
 
    私たちの教師の願いは、ただ一つ「子どもがよくなること」です。勉強でもスポーツでも人付き合いでも何でもかまいません。子どもの中に眠っている可能性を発見し、引き出し、伸ばし、輝かせ、自信を持たせることができれば、自分の仕事にやりがいと充実感が持てます。どんなに忙しくても、今の仕事に「やりがい」と「充実感」を持っている教員は、常に元気で生き生きとしています。そしてあまり「多忙感」を感じません。

  ちなみに私が7年間にわたる校長時代に、教師のやる気を引き出し、活力ある学校を創るために大切にして来たことを紹介したいと思います。
①教師がめざすのは「子どもをよくすること」という共通の価値観を持たせること。
②学校が何をめざし、どこへ向かおうとしているかを明確に示すこと。
③教師の全力こそが、全力を尽くしてがんばる子どもを育てるということ。           
④常に組織の中で「役立つ存在」として認められるよう心配りを忘れないこと。
⑤「学校としての判断や決断の責任は全て校長が取る」ことを宣言し、教師が安心して 子どもと全力で向き合える職場をつくること。…でした                       
                                                                   

09:45 | 投票する | 投票数(178)
2021/04/27

「聞く子はよい子」について(監督から)

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「聞く子はよい子」について 監督 齊藤 秀樹
  先週は「言葉で伝える力」(アウトプット)の重要性について書きましたので、今週は「人の話を聞く力から」(インプット)の重要性について、私が校長時代によく先生方に話した事を中心に書いていきたいと思います。

 「学校は勉強するところ」です。もちろん学校には行事や様々な活動がありますが、何といってもメインは子どもたちが学校生活の中で最も多くの時間を費やす一時間一時間の「授業」です。
 そこで今回は各担任の先生方が4月当初から取り組んでいる授業の基本的なしつけの一つである「聞く子はよい子」について書いていきたいと思います。

    子どもたちが落ち着いて真剣に授業に取り組むために最も大切なのが「人の話をしっかり聞く」ことです。先生の説明や友だちの発言を聞き逃さないようにするには、最初に繰り返し「聞き返しの訓練」を行います。「○○君、今○○さんが言ったことをもう一度言ってごらん。」というようにです。こうやって聞いた後の確かめをやっていくと、子どもたちは自然に「聞き上手」になってきます。どうしてこのようなことをするのかというと、授業に緊張感が出て、みんながボケッとすることなく集中して授業に取り組めるため、学習内容がしっかり頭に入ること。また、人の話を聞くことのできる子は、相手の立場を尊重し、相手を認めてあげられる「思いやりの心」も育つからです。人の話を真剣に聞くことのできる子は、友人たちから信頼され、心の触れあいも深まります。

  さらに「聞く」という力は「話す」という力にも通じます。いつも自分の主張ばかりに忙しく、他人の話に耳を傾けない子というのは、だいたいの場合、話の内容が浅く、説得力もありません。それに比べて、人の話をしっかり聞いた後に、自分の頭でそれを整理し、考えながら話せる子の言葉には深みや重みがあり、説得力もあります。クラスの子全員が「聞き上手」になれたら、どんなにけじめある和やかな雰囲気のすばらしいクラスになるだろうと思います。

 それでは具体的に聞き方のポイントを書いていきます。

その1…「話し手の方を向いて聞く」
  話し手は何かを伝えたい、わかってもらいたいと思って話しています。だから話を聞くときは、横を向いたり、おしゃべりをしたりせず、しっかり相手の方を向いて聞いてあげましょう。一般的には「話しは目で聞く」とか「体の正面で聞く」という分かり易い具体的な指導をしていきます。

その2…「自分の声を自分で聞きながら話す」
  自分の言っていることが自分でわからなくなっては、相手にもわかってもらえません。思いつきでなく、よく考えながらゆっくり話すことです。

その3…「聞く人を見ながら話す」
  これは「その1」の反対で、人に何かを伝えたいなら、天井に目を向けたり、うつむいて蚊の鳴くような声で話したのでは相手に伝わらないということです。

その4…「話は最後まではっきり言う」
 これは日本語の特徴でもありますが、言葉の最後にその人の考えや気持ちが出て、話が完結します。尻切れトンボや語尾が曖昧な話し方はダメです。

その5…「自分から積極的に聞く」
 授業中は受け身ばかりではなく、自ら耳を傾け、わからないことや疑問があったら、積極的に聞く(質問する)ことが大切です。これは聞き耳を育ててくれます。 
 
    学校ではこのように4月の始めに基本的な学習のしつけとして「聞き上手な子」を育てる努力をしています。現在各学校で行われている授業参観に来校する際には、授業中我が子がどんな姿で先生や友だちの話を聞いているのか注目して見てください。

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2021/04/20

「言葉で伝える力」の育成(監督から)

Tweet ThisSend to Facebook | by:スタッフ
 「言葉で伝える力」の育成   監督 齊藤 秀樹
    自分に自信がなく、間違えて恥をかきたくないから授業中手を挙げない、という子がいます。しかし学校という所は、わからないことをわかるようにするところです。朝、校門をくぐるときには知らなかったりわからなかったことも、下校するときにはわかっている。このように子どもたちは日々の学校生活の中で1つ1つのことを学び、理解していくことで成長し、これが学校に来る意義であり価値でもあります。そう考えれば、新しいことを理解するために、間違えるのは当たり前のことです。みんながわかっていることなら授業なんか必要ありません。そう“学校は間違えて良いところ”なのです。同じ1時間の授業をしていても、いつも受け身で覚えたり理解するだけの子と、理解したことを頭の中で整理し、それを相手にわかりやすく伝わるよう挙手をして発表する子とでは、その学力に大きな差ができてしまいます。

  ある会社で人事、採用を担当している私の友人曰く、会社としてほしい人材は、「知識・理解」に優れた人ではなく、人前で自分の考えを分かりやすく堂々と発言できる「表現力・プレゼン力」に優れた人材だそうです。

  さて話は変わりますが、5年生が国語の授業で「言葉と事実」という説明文の学習をします。この中に「イソップ童話のうそつき少年」という話が出てきます。有名な話なので皆さんもご存じだと思いますが、羊の番をしている少年が、オオカミが来てもいないのに「大変だ。オオカミが来た。」と言って、度々村人を驚かしだましていました。そのため本当にオオカミが来たときに「大変だ。オオカミが来た。」と言って必死に助けを求めても、村人はまた嘘だと思って、誰も助けに行かなかったという話です。
 この話は、「言葉は事実と結びつけて使わないと、言葉としての役を果たさなくなってしまう」という教えです。

    私は常々言葉というのは、それを発する人の「人格」や「人間性」が表れてしまうものだと思っています。例えば「今日の富士山は本当に美しい」という言葉でも、有名な写真家や画家が言う言葉と、たまたま訪れた一般の観光客が言った言葉では、それを聞いた人の印象は大きく違ってくると思います。

  よくクラスの帰りの会の中で「掃除中に○○君がふざけていました。」とか「最近、廊下を走っている子が多いので気をつけてください。」等と、友人たちをよく注意する子がいますが、その注意がどんなに正しくても、注意した子自身がそれを守れていないと、かえって反感をかうだけで誰からも聞いてはもらえません。他人に注意できる人は、まずは自分が注意できるだけのしっかりした人間であることが基本になります。 

    さて「子育て」は「己育て」、「育児」は「育自」、「教育」は「共育」という言葉がありますが、これは子どもを育てるとか教えるというのは、相手である子どもが成長するのはもちろんですが、それよりもむしろ育て教えている大人自身が、人間的に幅広く豊かに成長していくことだということです。子どもが親や先生の言うことを素直に聞くようにするためには、まず親や先生が子どもから信頼される存在であることが必要だと思います。

 人に対して、説得力のある言葉というのは、実は「何を言うか」ではなく「誰が言うか」で決まることが多いものです。したがって、私たち大人は「誰が言うか」の「誰」になれるよう日々努力していくことが大切ではないでしょうか。

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